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2021年9月12日 主日礼拝
1.娘を癒してほしいと懇願したヤイロ
- 主イエスが多くの病人を癒していることは有名になり、群衆が集まってきたが、ヤイロという会堂司がひれ伏して、死にかけている娘を癒しにきて欲しいと懇願したので、イエスは一緒に行かれた。しかしイエスを一目見ようとする群衆が押し迫ったので進みは遅い。ヤイロは気が気でなかっただろう。
2.ヤイロの家へと向かう途中で立ち止まった主イエス
- ノロノロでも進んでいればまだ良いが、ついに主イエスが立ち止まってしまう。誰が自分の衣に触ったのかと問われるが、群衆の間を通れば大勢が衣に触れると弟子たちは思った。しかし主イエスはひそかに自分に触って癒された女を思い、彼女が告白する機会を与えるために、バカなふりをして問われていたのだ。
- 彼女は身の上をすべて話し、主イエスは慰めのことばをかける。このやりとりは決してごく短時間では終わらなかっただろう。ヤイロは人の世話をする主イエスの態度には感銘を受けつつ、娘を思って気が気でなかっただろう。
3.娘の死の知らせを聞いたヤイロに主イエスがかけたことば
- ヤイロの恐れは的中し、主イエスが女と話している間に、娘が亡くなった知らせが届いた。ヤイロの胸は張り裂けそうになっただろう。主イエスはこうなることを予想できなかったのだろうか?長血の女のために時間を取る意義はわかるが、なぜ一刻を争うヤイロの娘の緊急事態を優先しなかったのだろうか?あとで生き返らせるから、しばらく死んでいてもらおうと思ったのか?
- 主イエスは娘の死の知らせをきいたヤイロに、「恐れないで、ただ信じていなさい。」と言われた。
4.ヤイロの信仰告白
- この記事はマタイにもルカにも記されている。マルコが一番詳しく記しており、記事の長さで比較すると、マルコ3:ルカ2:マタイ1の割合。最も簡潔なマタイの記事には省略も多いが、ヤイロの言葉には、マルコ・ルカにない重要な言葉が含まれている。
イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、一人の会堂司が来てひれ伏し、「私の娘が今、死にました。でも、おいでになって娘の上に手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」と言った。(マタイ9:18) - ヤイロは死んだ娘を生き返らせてくださいと願っている。娘の死が知らされ、主イエスに「恐れないで信じなさい」と励まされた上で、この願いをしたのだろう。いのちは神によって与えられる。ヤイロは主イエスを、いのちを支配する神の子と信じ告白したのだ。
- 長血の女のために立ち止まらなければ、このヤイロの信仰告白もなかっただろう。このことばを聞いた主イエスは、同行者を減らしヤイロの家に急いだ。間に合わないからではなく、ヤイロの気持ちに同情したからだろう。
- 主イエスはヤイロにとっての最善も実現された。主のお考えは深い。
「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)
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