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2021年1月1日 元旦礼拝
1.神に近づこう(19-22)
- 「血」とは生贄。(実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。レビ17:11)「イエスの血」とは十字架による罪の贖い。
- 「垂れ幕」とは、神殿の奥の至聖所を区切る幕。そこは神に最も近い場所で、罪ある人間は入ることが許されない。主イエスが死なれた時その幕が裂けた。(しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。マルコ15:37-38) 主イエスは、ご自分の肉体で、私たちが神に近づく道を開いてくださった。(19-20)
- 「偉大な祭司」とは主イエス。主イエスは、いつも私たちをとりなして下さっている。(21)
- 「血が振りかけられ」とは生贄による罪のきよめを意味する。私たちは主イエスの十字架が自分の罪の裁きであったことを信じるが、そう信じるのは実は聖霊の導き(コリント第一12:3)なので、「心に血が振りかけられる」とは信仰による救い。
- 「からだをきよい水で洗われ」はバプテスマ。心の信仰は、身をもって表現することで、真心を示せる。神から逃げずに近づこう。
2.希望を告白し続けよう(23)
- 私たちを救う約束は、主ご自身が与えて下さった。約束は、相手が守ってくれることを信じるところに意義がある。主は約束を守る真実な方。損になっても誓いを果たす。(詩15:4)
- 「動揺しないで」ということは、不安な状況があったということ。私たちも今、不安な状況の中にいる。ならばこの勧めは、私たちにも与えられている。
- 神が真実な方であることを思い起こそう。そして、主のみこころが一番すばらしく、主はご計画通りに事を行われること、また自分も主に愛され、主のご計画の中で取り扱われていることを信じよう。この信仰に立つ時、私たちは希望を告白できる。
3.互いに注意を払おう(24)
- 私たちの信仰は、自分個人の事柄にとどまるべきではない。神を愛することと隣人を愛することは切り離せない。(ルカ10:27)なぜなら、神は自己充足しておられ、何かしてもらう必要はないが、神の愛している人々には、常に何らかの必要があるので、その人々に愛と善行をすることで、神を喜ばせることができるからである。
- 互いのことを、「神に愛されている人」として注意を払おう。自分も相手も、自発的に神に喜ばれる愛と善行をするようになることが、目標である。
- 「促すため」とある。見守るべき時も多いと思うが、促されることが有難い時もある。貴重なその時を見逃さないように、互いに注意を払うのだ。いつも互いのため祈ろう。
4.ますます励まし合おう(25)
- 「ある人たちの習慣」が何を意味するのかは不明。初期のキリスト教会は迫害を受け、集まり続けたために捕まり殺されたキリスト者が大勢いた。迫害を避けるためキリスト者として集まることをやめた人々がいたのだろう。今日、コロナ感染予防のために集まることをやめている人々がいる。感染予防の観点からは彼らの判断は正しいように思える。しかし、聖書は集まりをやめず、むしろ励まし合うことを教えている。
- 「その日」は再臨のことだろう。たとえ殺されても再臨の時によみがえることを信じ、キリスト教は集まり続けた。不安要因があるときこそ、信仰の本気度が試される。
- 不安が多い今こそ、私たちは互いに励まし合おう。主が最善をなされる。私たちは互いに注意を払い、愛と善行に努め、また兄弟姉妹も愛と善行が成せるよう励まそう。
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