2021年1月3日 主日礼拝

マタイ 11章28節~30節
國分広士牧師

1.誰が招かれているのか

  • 「すべて」ということは広く呼びかけられている。
  • 「疲れた人、重荷を負っている人」と言われて応じるのは、自分に休み・助けが必要だと自覚している人。自分は大丈夫と思っているなら、助けを求めない。
  • 安易に頼ってはいけないと、無理をしてはいないか?やればできることをさぼるのは主イエスの本意ではない。しかし努力しても無理なこともある。自分が助けを必要としているという自覚が必要。
  • 人に頼るのはみっともないと思ってはいないか?他者のこととして見るならば、「助けて」と言い出せない人の方が見苦しい。
  • 自分の罪深さ、弱さを素直に認めよう。

2.誰が招いているのか

  • 28-30節の間に、「わたし」が7度も出てくる。この「わたし」は主イエス。
  • 聖書のある文脈の中で、繰り返されることばは強調表現。主イエスはここで、ご自分を強調している。ということは、他に助けを求めるのではなく、主イエスに助けを求めるべきだということ。
  • 罪人の悲しさは、真の助けがどこにあるのかを知らないこと。自分の選択が正しかったのか不安で、他の可能性を探している人が多い。反対に誤った選択をしたとも知らずに安心しきっている人も哀れ。
  • 病気の原因がわからない医者は正しい治療ができない。私たちの抱えている問題を真に理解し解決できるのは主イエスのみ。
  • 主イエスは造り主。世界の問題を真に解決できるのは世界の造り主だけ。
  • また主イエスは罪を贖う方。罪の問題を真に解決できるのは、贖い主だけ。

3.主は優しく招いておられる

  • 主イエスは「来なさい」と、私たちが自発的に従うように、優しく招く。正しい言葉であっても、厳しく言われると自尊心が傷つき、心が折れてしまうかもしれない。私たちの自尊心も主イエスは大切にしてくださっている。
  • 優しくても方便ではない。方便とは、正しい方向に操作するための優しい嘘。表面上は優しいが、真に人を尊重する態度ではない。
  • 主イエスの優しさは真実。主は「柔和でへりくだっている」。人間になり、人間として生き、人間の弱さも実感され、私たちをよくわかってくださる。
  • 主イエスの解決策は実際的で効果的。主のもとに行くと、主のくびきを負い、主イエスから学ぶことになる。「くびき」は主イエスと共にいて、主と同じ方向に進み、主の使命を共に果たすことを意味する。すなわち、主の目指す解決とは、私たちが主を喜ばせる存在になること。そうなってこそ、私たちはたましいにやすらぎを得ることができる。
  • 平然を装いながら、心の奥底では「本当はこういう生き方をしていてはいけないのだ」と思いながら生きてはいないか。主イエスはそういう人を招いておられる。主の招きに応答しよう。