2026年3月15日 主日礼拝

ローマ3:21-26

國分 広士 牧師

1.律法とは関わりなく、律法に証されて

  • 律法は神の愛と聖さを教え、神に従う者にもそれを求める。
  • 関わりなく:しかし人間は神に逆らい神の期待に応えない罪を犯しているので、律法によっては義とされない。
  • 証されて:律法はあがないによる救い(神の義)を証ししている。自身で自分を救えない私たちには贖いが必要。
  • イラン戦争を見ていると律法に背く罪深さを感じる。斬首作戦は、サウル王を殺せるチャンスが2度ありながら、主に委ねて殺さなかった、イスラエルの英雄ダビデの信仰とはほど遠い。トランプ大統領が牧師たちに祈られて戦闘を継続するのは、主に委ねる信仰を全く感じない。核開発を認めないなら、自分も核放棄を決断するべきである。誤爆を相手のせいにするのは、責任転嫁をしたアダムの姿。
  • こうした罪深さゆえに「神の栄光を受けることが」できない。それは戦争の当事者だけでなく、罪を犯して悔い改めない全ての人の問題。 

2.イエス・キリストを信じることによって、価なしに義と認められる

  • 神は愛であり聖いお方。罪を滅ぼす聖さと、罪を赦す愛に満ちている。
  • 神は愛と聖さを両立させるために、「キリスト・イエスによる贖い」をされた。
  • すなわち、人間の罪の身代わりとなるために主が人となられ、罪のない生涯を送り、私たちの罪を背負う「宥めのささげもの」となられた。そして罪のさばきを受けて十字架で死に、三日目によみがえって、罪のあがないが成就したことを公に示された。
  • この贖いを信じるように私たちは求められている。世の人々は自分の義を追い求めるが、神は価なしに義と認められることを信じるように教えておられる。

3.とりなされている

  • 十戒の石の板が与えられた時に、イスラエルはモーセの下山を待てず、民の不安をしずめようと、自分たちで解決策を考案し、偶像を造り祭りをし、歌い騒ぎで不安を忘れようとしたのだ。しかしそれは神への反逆でもあった。その罪をモーセはとりなし、赦された。今、私たちは主イエスのとりなしによって救われている。
  • →  参照 ヘブル7:24-25
  • 24,イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。
  • 25,したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。