2026年3月8日 主日礼拝

ローマ3:9-20

國分 広士 牧師

「義人はいない。一人もいない。」と言われると、真理だと思う反面、心が揺らぎ疑問もわく。義人ヨブはどうか?悟りをひらいたという釈迦はどうなのか?などと、例外はあると思う人もいるだろう。疑問はみことばを考えるきっかけになる。本当に義人はいないのかを考えよう。

1. すべての人が罪の下にある

  • 10-12節は詩篇14:1-3(53:1-4)の引用。出典である詩篇のことばを見よう。
  • 主が天から世を見た時に、悟る者・神を求める者・善を行う者がいなかった。つまり人間の視点ではなく、主の視点であることを理解する必要がある。
  • 人間同士の比較で「比較的ましな人」はいる。また、ピリピ2:3には「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」とある。人の罪深さより、良い面に注目した方が平和に役立つ。
  • しかしそれは神の基準において義と認められるということではない。むしろ、比較的ましな人ほど、自分の罪深さを素直に認めるだろう。
  • 仏教では悟る人を仏と信じている。仏教思想は哲学的にも高度て優れた思想だと評価されている。しかし神の視点から見るなら、全ての造り主を無視する思想は、「神はいない」と言う愚か者の考えと同じであり、真の悟りではない。

2. 神を求める者はいない

  • これは私たちにも当てはまる指摘なのか?「すべての者が」という表現は、例外を認めない。
  • 24節まで進むと、「信仰義認」の教えが出てくる。そこまでいかないと解決はない。今日の学びの範囲においては、自らの罪深さを自覚し嘆くことに意味がある。
  • トランプ大統領が執務室に多くの牧師たちを招いて祈ってもらっている映像を見た。その祈りをした上で攻撃命令を下していることに心が痛む。ある学者は「イラン人の安全や生活を全く考慮していない。1億人近いイラン人が、無政府状態になり、水道もガスも止まって暮らせなくなったらどうするのか?」と指摘する。それが「福音派」のすることなのか?
  • むしろ15-17節「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。」がよく当てはまる。それは18節「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」からである。アメリカを愛する神を求めても、全ての人を愛する神は求めていないのだ。
  • この問題は、特定の人物だけの問題ではない。「すべての者」の問題。私たちには、自分さえよければという自己中心の思いがある。自分のためには人を犠牲にし、神をも犠牲にしようとする。

3. 神のさばきに服する

  • 私たちはみな、神のさばきに服する。その時には人々は、自分の行いに応じてさばかれる。(黙示録20:12)
  • このさばきがあるからこそ、さばきからの救い主のイエス様が私たちに必要なのである。もしも「自分はさばかれない」と思うなら、救い主はいらない。
  • しかし、自分は絶望的な罪人だと思う人には、救い主がおられることはまさに「福音」。イエス様の時代にも、「罪人」たちがイエス様の周りに集まった。

へりくだって自分の罪深さを嘆き、主の救いを求めよう。