2026年3月1日 主日礼拝

ローマ3:1-8

國分 広士 牧師

1.神のことばを委ねられたユダヤ人の不真実は、神の真実を無にするのか?

  • ユダヤ人よって聖書が書かれ、また保存された。イエス様はユダヤ人であり、十字架には「ユダヤ人の王」と記された。ユダヤ人の歴史は聖書の記述と密接に関係している。
  • それで、必要以上にユダヤ人びいきをする人もいるが、あくまで神に用いられた存在なのであり、神の「しもべ」である。不忠実で不真実なしもべが、それでも神のあわれみで用いられたのは、罪深い私たちもあわれみを受けることができることを示すため。へりくだるべきであり、悪くても良いと開き直るべきではない。

2.怒りを下す神は不義なのか?

  • サタンは神がいけないと訴える。自分で悪くなる存在を造っておいて、それを裁いてご自分の義を示すのは、主役を引き立てるために悪役を登場させるようなものであり、すべて「やらせ」ではないかと、神の悪意を訴える。
  • その悪意は、エバを誘惑した蛇のことばに現れている。(創世記3:5参照)
  • 神は信仰をもって従うことを望んでおられる。わざと悪に陥らせることはないし、陥った者を冷たく見捨てるのでもない。救いをもたらす十字架の愛を示し、人々が信じ救われる機会を十分与えた上で、最後に裁きを行う。
  • 裁きなどいらないと思うのは悪魔的な思い。悪魔は悔い改めることがないからそう思う。悔い改める可能性を持つものは、開き直らないで、素直に自分の罪を認めよう。

3.善をもたらすために悪を行う必要があるのか?

  • 「必要悪」ということばがある。悪の世界においては、良い生き方だけでは通用しないのだから、悪いことをすることもやむを得ないと。
  • しかし、それは、神の救いを信じない者の考え。信じないので、自分でなんとかしようとし、良い方法が見つからないので悪を行う。
  • どうせ、全て益に変えられるという、甘えもある。しかしそれは「思い違い」(ガラテヤ6:7)
  • 全ての悪意を捨てて、素直に主に告白し、主に頼ろう。