2024年9月22日 主日礼拝
序
主イエスは多くのたとえ話をされた。たとえで話す目的は、一面においては聞く人にわかりやすいように語るためだが、もう一面は、真理を隠すためでもある。たとえの表面的な意味にしか目を向けられないと、主イエスの真意までは掴めない。これによって真に主イエスを信じるのかどうか、ふるいにかけられる。読者はすぐに理解できる興味深い点に注目するだけでなく、すぐには理解できない部分も心に留めよう。
1.主イエスがぶどうの木
- ぶどうはイスラエルの主要農産物なので、聴衆はどうしたら良いぶどうの実がなるのか、すぐ理解することができた。植物なので、まずしっかりと根付いた木が必要。そこから伸びる枝にも、良い枝と悪い枝があり、農夫が剪定をして管理してこそ良い実がなる。
- 農夫は父なる神、ぶどうの木が主イエス、枝が私たちに当てはめてたとられている。私たち「枝」にとって最も重要なのは、「木」にとどまっていること。
- あくまで「たとえ」。植物の枝と違って、私たちは、自分の意思で主イエスにとどまることも離れることも選択できる。主イエスは「わたしにとどまりなさい」と、私たちが自分の意思で主イエスに聞き従うように勧められた。
2.刈り込み
- 農夫はぶどうの手入れのために、一部の枝を切り取る。その目的は、第一に実を結ばない悪い枝を取り除くため。第二は、実を結ぶ枝が、さらに多く実を結べるように「刈り込む」ため。どちらも枝を切り取る点では同じだが、意図が違う。
- 枝の立場からしたら、切り取られる点では同じこと。悪い枝だからと切り取られても、期待するからこそ刈り込まれても、切られる痛さは同じ。しかし農夫の意図は違う。
- ぶどうの枝が切られることは、私たちの経験する苦痛を例えて語られていると思われる。誰でも苦痛を感じれば辛いし、「なぜこんな苦しい目にあうのか?」とも思う。しかし痛みにも二種類の痛みがあることを理解しよう。捨てられる痛みと、手術のような回復や成長に向かう痛みである。刈り込みの痛みは後者。
- 痛みを経験しても、まだ生かされているならそれは「刈り込み」だと理解できる。刈り込みなら望みがある。しかも単に生き残る望みだけでなく、豊かに実を結ぶ望みである。
3.主イエスがとどまる
- 5節に「人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。」とある。私たちが自分の意思で主イエスにとどまろうと決意することに続き、主イエスが私たちにとどまられ、主イエスと共に生きることによって、多くの実を結ぶことになるのである。
- 枝は良い木から常に栄養を受けて成長し、ついに実を結ぶ。いきなり実を結ぶのではなく、実を結ぶに至る色々な過程がある。信仰の歩みにも、色々な過程がある。こうした一連の信仰の歩みの祝福を、ぶどうの木のたとえはよく表している。
- 私たちの側に求められているのは、主イエスを信頼して従い続けること。自分が枝にすぎないとわきまえないと、従い続けられず、どこかで主イエスから卒業してしまい、心から主イエスを締め出す。それでは主イエスが結ばせたい実は結べない。
結
自分の人生は多くの実を結んだと思うか。まだ実を結べていないと思うか。真に大切なのは繋がるべき方につながっているかどうか。主イエスにとどまろう。