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2022年12月11日 主日礼拝
1. 心が鈍くて聖書が信じられない者たち
- 主イエスは、エマオへ向かう二人の弟子たちの道連れになったが、二人の目は遮られて主イエスだとわからなかった。彼らの話題に加わった主イエスは、彼らに「ああ、愚かな者たち」と嘆いた。目で主イエスを確認できなかっただけでなく、彼らの心が主イエスを信じられなくなっていた。
- 主イエスは不信仰について「預言者たちの言ったことすべてを信じられない」ことだと言われた。最も深刻な信仰の揺らぎは「聖書はわからない」ということ。これは現代の私たちにとっても深刻な問題。周囲からは「聖書は非科学的」「聖書の倫理観は古い」といった疑いの目が向けられている。私たちは聖書のことばをよく知り、これまで以上に確信を持つ必要がある。
2. 主イエスは聖書を解き明かされた
- 主イエスは二人を叱責したが、その叱責は彼らの学ぶ意欲を高め、主イエスの解き明かしを二人は熱心に聞いた。目的地についてももっと聞きたいと、一緒に泊まるよう願った。彼らの心は燃えていた。
- 食事の時、主イエスはパンを取って神を賛美し裂いて配り、二人の目が開かれて主イエスだとわかった。この時、特別なことをしたわけではない。いつもしていたことだった。公生涯の間、主イエスは聖書を解き明かして神のみこころを教え、ことばだけでなく、神と人を愛する実践をされた。この時も同じだった。しかしそれが、この二人にはどうしても必要な経験だった。この自分も主イエスに愛されていると実感することが必要だったのだ。
3. 離れようとする弟子たちへの主イエスの心遣い
- 二人の弟子がどういう理由でエマオに向かっていたのかは不明だが、師亡き後の弟子は不安定になりやすいので、信仰の揺らぎから弟子集団から距離をおこうとしたのかもしれない。主イエスは去ろうとする弟子たちを励ましてくださった。
- しかし、人情に訴えて「寂しいから行かないで」と言ったり「誓いを破るのか」と叱責したのではない。主イエスがなさったのは、聖書の解き明かしだった。
- 主イエスの十字架から、みことばがわからなくなっていたことが、心が離れる原因だったので、主イエスは一番大切なこととして、みことばを解き明かされた。
- 二人は主イエスに「エルサレムに戻れ」と指示されたのではないが、仲間と話したくなってエルサレムに戻った。何を話したいのか?主イエスについて話し合いたいのだ。それができる相手を求めて、エルサレムに戻ったのだ。
- 私たちもみ言葉を学んでそれぞれ心が燃える熱い想いが与えられるなら、誰かに話したい。一番よくわかってくれる人と分かち合いたいし、まだ知らない人にも知らせたい。みことばを学び心が燃えることが、教会の交わりの核なのだ。
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