2022年7月3日 主日礼拝

ルカの福音書 7章18〜23節
國分広士牧師

1.主イエスに失望したバプテスマのヨハネ

  • 当時獄中にいた(3:20)バプテスマのヨハネは、自分の弟子を派遣して、イエスに、「おいでになるはずの方」すなわち「キリスト」なのかと尋ねた。投獄される前には主イエスを「神の子羊」(ヨハネ1:29)と言っていたのに。
  • なぜヨハネは主イエスを疑ったのか。考えられる第一は、彼が獄中にいるという不遇な状況にいたこと。なぜ自分はみじめな状態のままで、助けが与えられないのかと思うと、信仰が揺らいだのだろう。
  • 主イエスの行動にも失望したかもしれない。主イエスの周囲には多くの群衆がやってきた。彼らを組織化し、具体的な行動を指示すれば、社会変革が起きるかもしれないのに、主イエスはいつも短時間で群衆を解散させ、12弟子以外は明確には組織化しなかった。機を逸したという失望感を抱いてもおかしくない。

2.疑念を隠さずに主イエスに尋ねた

  • ヨハネは自分の疑いを主イエスにぶつけた。詩篇42篇で「なぜあなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵の虐げに嘆いて歩き回るのですか。」と問う後に、「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い私の神を。」と続くことばを思い起こす。
  • 疑念が暴走すると、不信仰や異端へと発展しやすい。かといって自問自答だけでは疑いは晴れない。主ご自身に尋ねたのは正解。
  • 主イエスはヨハネの使いが帰った後、28節で「女から生まれた者の中で、ヨハネよりも偉大な者はだれもいません。」と語るので、疑問を尋ねたヨハネへの評価は下がっていない。

3.主イエスにつまずかない者は幸い

  • 主イエスは長い説明のことばによってヨハネを説得しようとはしなかった。ヨハネの弟子たち自身が主イエスをよく観察し、それを伝えなさいと答えた。
  • 詳しい説明をすることも可能だっただろう。そうしなかったのは、説得で納得させるよりも、自分の目で見て耳で聞いて、自分自身の判断として「イエス様は確かにキリストだ」と信じることを望んだからだろう。
  • 主イエスは「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」と言われた。ということは、つまずく可能性は誰にもあり、実際につまずく人が多いということ。なぜつまずきがあるのか。もしも論理によって納得させる手法ならば、つまずくのは、聞いた人が誤解したのか、論理自体に誤りがあるのかのどちらか。しかし主イエスはそうした手法はとらず自発的信仰を求めた。
  • キリスト者は聖書全体を学び、論理的に聖書の内容を説明する「神学」を作ってきた。体系的であるかなしかは別として、実は誰もが自分なりの神学を持っている。しかし主イエスはヨハネに対して神学的な説得はしなかった。主イエスご自身の論理への同意を求めたのではなく、ヨハネ自身の神学で主イエスを信じることを願ったのである。この願いは私たちにも向けられている。私たち自身が、自分の心で主イエスを自分の救い主と呼ぶことを。