2022年4月17日 主日礼拝

ヨハネ 20章24~31節
國分広士牧師

1.トマス:「決して信じません」

  • トマスはイエス様の12弟子の一人。彼の名はマタイ、マルコ、ルカ、使徒に1回づつあるが発言は記されていない。ヨハネには名が8回、発言が4回記される。
  • トマスは「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」と言っていた(ヨハネ 11:16)。 イエス様を慕ってはいるが、主のご計画は理解できていない。
  • 14:5では、イエスさまが父の家(天国)に行くことと、自分達もその道を知っていると聞き、「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」と尋ねている。納得を求め、率直に発言する人物だとわかる。
  • 復活した主イエスに会った仲間たちから「主を見た」と聞くと、トマスは納得できず、「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」(20:25)と言った。半信半疑ではいられない、きちんとした性格なのだろう。
  • ヨハネはトマスの信仰告白に注目し、トマスがどうして疑いどうして信じたのか、その心の変化を観察できるように、彼の発言をいくつも掲載したのだろう。

2.イエス:「信じる者になりなさい。」

  • その発言の8日後、再び弟子たちは一軒の家に集まっていた。戸に鍵をかけていた(26)のは、ユダヤ人たちによるイエスの残党探しを恐れていたのだろう。物理的には外部から入れないその場に主イエスがやってきた。これは奇跡。
  • 主イエスはトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言われた。イエス自身がいない場でのトマスの発言も、ちゃんと聞いておられたのだ。主はどこにでもおられる。
  • 主イエスの願いは、トマスが信じる者になること。私たちも信じる者になることを主イエスは願っておられる。

3.トマス:「私の主、私の神よ。」

  • ユダヤ人は人間を神とは思わない。主イエスがユダヤ人の指導者たちから憎まれたのは、ご自分が「神の子」だと認めたことが大きい。人間が神のはずがないと思うので、まさか神が人の子として生まれるとは予想できなかったのだ。
  • イエスの弟子たちもユダヤ人なので、主イエスの数々の奇跡を見て「神としか思えない」と感じつつ「そんなことありえない」と思ってしまう。自分の常識と、見ている事実とが異なるので、困惑するのである。
  • トマスは常識によって弟子たちの証を疑い「信じない」と言ったが、目の前の主イエスは疑えなかった。それで「私の主、私の神よ。」と言う。ユダヤ人であり、納得がいかないと気が済まないトマスの発言なので意味が深いことば。
  • 彼は主が復活して行きていること、また自分の心をよく知っていて、愛していることが理解できた。知的には解明しきれない不思議な部分は残ったとしても、主イエスの愛と期待に応えたい思いが心に湧いてきたのだろう。
  • 私たちもトマスと同じように、イエス様を自分の主(主人、師、救い主)、自分の神(造り主)だと信じ告白しよう。