2022年4月10日 主日礼拝

ヨハネ 18章33~38節
國分広士牧師

序 ・18章に登場する、ピラト、ペテロ、主イエスの三人の態度から、「真理」について考える。

1.「真理」とは何かがわからないピラト

  • ローマに支配されるユダヤは裁判はできたが死刑執行はできなかった。そこでローマ総督ピラトに死刑判決を求めた。ピラトは自分やローマ帝国にとって都合が良いか悪いかはよく考えていたので、人々がこだわる事柄については把握し、問題が顕著にならないよう対処しようとしていた。
  • しかし、真理より人の評価を気にするなら、人をごまかしてでも良い評価を得ようとするのが人間の弱さ。ピラトはイエスの無罪は確信したが、訴えとの妥協策として恩赦という形にしようとする。しかし、イエスの死刑を求めるユダヤ人たちは、強盗バラバの釈放を求める。真理より保身を求めたピラトは、自分が望まない判決を自分で下すという皮肉な結果を迎えた。

2.偽ったペテロ

  • ペテロは主イエスのためなら死ぬという思いだったはず。13:37にはペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」 彼の覚悟は、イエスを逮捕しに来た者に剣で斬りかかったことに現れた。しかし主イエスに見当違いをいさめられ、「弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。」(マタイ26:56)
  • ペテロともう一人の弟子(おそらくヨハネ)は遠くまでは逃げず、群衆に紛れてついてきた。もう一人の弟子は大祭司の知り合いという立場で中庭に入り、同行したペテロも入れてもらったが、その際門番に「あなたも弟子ではないでしょうね?」と問われた。ヨハネは不問にしたが、他の弟子まで入れたくないという意図を感じ、ペテロは否定した。真理より都合を優先したのだ。
  • 火に当たって暖まりながら裁判の様子を聞いていると、また弟子ではないかと問われ、ペテロは合計三回否認する。一度否認した自分のことばに拘束され、どんどん心が主イエスから離れてしまう。彼が三度否認すると主イエスの予告通り鶏が鳴いた。[「わたしのためにいのちも捨てるのですか。…鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」13:38]真理より保身を求めたペテロは、主イエスを否認するという、望まないことばを語ることになった。

3.主イエスの態度は一貫していた

  • 主イエスは、自分を逮捕しにきた人々に「わたしがそれだ(5,8)」と二度言った。ペテロと異なり逃げない正直な態度を貫いた。また主イエスは、大祭司の尋問に「自分の話を聞いた人々に尋ねよ」と答え、過去の発言の撤回をしない態度を示した。大祭司に忖度しない態度に下役は激怒しイエスを平手打ちしたが、主イエスは忖度を当然とする態度は拒否され、一貫した態度だった。
  • 総督ピラトには「あなたはユダヤ人の王なのか?(33)」と問われた。主イエスは「あなたは、そのことを自分で言っているのですか。(34)」と返答し、本意で聞いているのか逆に尋ねる。主イエスの関心は、自分がどうされるのかという心配ではなく、ピラト自身はどう考えるのかと、ピラトのことを心配していたのだ。ピラトは「私はユダヤ人なのか(35)」と答え、自分の問題としては考えようとしない。そこで主イエスは「わたしの国はこの世のものではない(36)」と言われ、ユダヤやローマといった地上における区分を超えた、普遍的な神の国について語った。神の国に入るか入らないかはローマ人であるピラトにも共通の課題なのだ。神の国に入る道がそこにある。主イエスはこの状況でも魂を導こうとされていた。すなわち真理を証しする(37)態度を貫かれた。

4.主イエスこそ真理

  • 「真理より保身」というのが人間の実情。しかし、誰が信頼できるかといえば、その場次第で変わってしまう人ではなく、一貫した真理に立つ人。
  • 主イエスこそ「真理」。(「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」14:6)
  • 真理に属する者は主イエスの声に聞き従う。私たちも不真実であった自分を悔い改め、主イエスを信じ、主のことばに聞き従おう。