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2021年12月12日 主日礼拝
1.ザカリヤの賛歌
- ザカリヤはバプテスマのヨハネの父。彼は祭司で、神殿で主の前に香を焚く時に、天使が現れ語られた主の御告げを信じないでしるしを求めたために、受胎告知から子の名付けの時まで口がきけなくされていた。子の名を天使に命じられた「ヨハネ」とつけた時に物が言えるようになったことは、ザカリヤに主を信じてに従うことを教える経験となった。
- 彼は聖霊に満たされ預言して歌う。預言は語る者の意思と無関係ではない。その人自身の経験に基づく思想を反映する、その人自身の言葉であると同時に、聖霊に満たされて、その人個人の思いを超えた主のみこころを告げる。
2.敵からの救い
- ザカリヤは主をたたえる。念願の子が与えられた感謝するだけでも、主をたたえる動機になるが、彼が主を讃えるポイントは「救い」。69節、71節、74節、77節にも「救い」ということばが繰り返し出てくる。
- 彼の言う「救い」とは、どういうことか? 69節の「救いの角」は王を表す。ダビデ王の家系に現れることが預言されている「救い主=キリスト」を指して語っている。71節と74節には「敵」とあり、敵からの救いという意味も読み取れる。王が敵から救うということだけに注目するなら、軍事力を行使して外国からの抑圧からの解放するという意味にも解釈しかねない。
- しかし、68節には「贖い」ということばも出てくる。また、77節では「罪の赦しによる救い」とも言われている。祭司が「贖い」や「罪の赦し」と言うからには、罪を贖ういけにえが主にささげられることによって、私たちの罪が赦されることを語っているに違いない。
- 「救い主=キリスト」が罪の贖いをしてくださることによって、私たちを救ってくださるということならば、敵は「サタン」。外国の人々も人間であり、実は救いの対象。主の救いはすべての人に及ぶ。
3.恐れなく主に仕えるようにしてくださる
- 73節の「父アブラハム」は、ザカリヤより2000年前の先祖。主は救いの計画を前々から立てて、それをきちんと実現された。主は先の先まで考えて導かれる。
- ザカリヤにとり、天使のことばを疑ったことは、祭司として汚点。主の前に仕えることが難しくなる汚点。自分が先が見えないとしても、先が見えている方のことばを疑う理由にはならない。しかし主は、彼に反省の機会を与え、今は聖霊を満たして彼の心を受け入れてくださっている。主は先の先まで考えて自分の人生を導いてくださっていることをザカリヤはこの体験で学んだ。
- ザカリヤは主が自分の罪も贖い救ってくださることを信じた。それで、かつての失敗から立ち直り、恐れなく主に仕えることができる。私たちも主を信じ、恐れなく主に仕える者にしていただこう。
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