2021年6月6日 主日礼拝

出エジプト 16章13~30節
國分広士牧師

1.食べる分に応じて集めよ

  • エジプトから解放されたイスラエルの民は、荒野の旅という次の局面に立ち向かう。すると、水や食料の調達という大きな課題に直面する。エジプトでは奴隷として苦しんだが、荒野では飢え乾きで苦しむ。未体験の苦しみよりは、明日を予想しやすい奴隷状態の方が良かったと、民は不平を言った。
  • 水や食料の欠乏は死活問題なので、自分たちの力では水や食料が調達できないという彼らの訴えはもっともに聞こえるが、重大な見落としがある。それは主。エジプトから導き出してくださった主の偉大な御力と、イスラエルに対するいつくしみ深いお心を考慮に入れていない。主を考慮に入れず、自分の都合を優先して主張したのはエジプトのファラオと同じ。みじめに滅んだファラオの軍勢を忘れてはいけない。主を信じる者が救われるのだ。
  • 主はまた偉大な奇跡を行われた。天からパン「マナ」を降らせ、日々の食物とされたのだ。これは40年間続く。1回きりの奇跡ではないのだ。非常に興味深いのは、マナは保存がきかないこと。安息日の分は前日に集められたが、それとて、さらに翌日まではもたない。毎日食べる分だけを集める作業が、地上の生涯が終わるまで続くのである。

2.ある者はたくさん、ある者は少しだけ集めた

  • 多く集めて保存したいのが人の性。ある者は多く集めてしまう。「食べる分だけ」という命令は「もっと集めたい」という欲でかき消えてしまう。他方、消極的に少しだけ集める者もいた。重く疲れるからなのか、遠慮してなのか、マナ自体に対する疑いからなのか。
  • 多く集めた者も、少しだけ集めた者も、言われた通りにしないという点では同じ。エジプトのファラオも主のことば通りに応じようとはせず、譲歩を迫った。みじめに滅んだファラオと同じ道を歩んではいけない。「私なりの信仰」には正されなければならない面がある。

3.結果は、食べる分に応じて集めていた

  • イスラエルの信仰が不十分であるにも関わらず、主は彼らを通して栄光を現わされた。持ち帰ったマナを測ると、実はちょうどよかったのだ。これは奇跡である。人がちょうどよくしたのではなく、主がちょうどよくされたのだ。
  • この箇所は第二コリントで献金の勧めの中で引用されている。
  • 「今あなたがたのゆとりが彼らの不足を補うことは、いずれ彼らのゆとりがあなたがたの不足を補うことになり、そのようにして平等になるのです。「たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった」と書いてあるとおりです。(第二コリント8:14-15)」
  • 「ゆとりが不足を補う」というのが献金のこと。「相互援助」という視点で理解することもできるが、ちょうどよくしてくださっている神を見落としてはいけない。「余らず足りる主の恵み」を期待しよう。
  • 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。ローマ8:28