2021年5月16日 主日礼拝

出エジプト 12章21~28節
國分広士牧師

1.最後の災い

  • 主はいくつもの災いを下したが、それは最後の災いを受けないようにとの警告でもあった。ここまでの経験から、主が言われたことは必ず実現すると理解できていたなら、「エジプトの地の長子は、王座についているファラオの長子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の長子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ」(11:5)と予告された、長子の死の回避を真剣に考えたはず。
  • エジプト王ファラオが主に従えなかったのは、従うことで自分の大切なものを失いたくないから。奴隷は古代社会においては社会基盤。エジプト人より多いというヘブル人の奴隷を失えば、社会基盤が崩れる。現代で言えば、電気が止まるというようなこと。しかし、いのちの支配者に逆らえば、いのちを失う。
  • 実は、長子の死ですら、究極の裁きである第二の死の裁きを受けないようにとの警告。私たちはいのちある限り、主に従うのか逆らうのかを問われる。いつでも何度でも同じように主に従う者は幸い。

2.いけにえの血を家の鴨居と門柱に塗る

  • モーセはファラオに「主がエジプトとイスラエルを区別される」(11:7)と告げたが、その区別は、家の戸口に血が塗られていたかどうかで現された。
  • 血が塗られているかどうかは、誰でも区別できた。主は心の内面の思いを、誰にでもわかる形で表現することを求められた。今日、私たちに求められるのは信仰告白であり、そのしるしとしてバプテスマを受ける。
  • 形式的な洗礼なら意味はないと思うかもしれない。実は血を塗ったイスラエル人の多くが、エジプトを出た後に、エジプトに帰りたくなり、主のしもべモーセに逆らった。では後に逆らう者にとって、このとき血を塗ったことは無意味だったのか?そこまで言うのは言い過ぎだろう。その人をどう裁くかは主の判断に任せるべき。私たちが考えるべきは、今、自分は何を選択するのかということ。

3.「それは主の過越のいけにえだ」

  • このあと、イスラエルは毎年、過越のいけにえをささげ続ける。時代が変われば後の子孫は意味がわからなくなり尋ねる。そのとき彼らに「主の過越」を教える機会を得ることになる。過越のいけにをささげた者は、少なくとも子孫に過越の意味を語る者になる。それには大きな意味を感じる。
  • 私たちの信仰告白は、自分自身だけのものではない。周囲の者にも後の子孫にも大きな影響を残す。「私の先祖は洗礼を受けた」というのは、変えられない事実として残る。そうした事実の積み上げには意味を感じる。