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2021年3月14日 主日礼拝
1.序
- マタイの福音書は、21章でロバの子に乗ってエルサレムに入場後、十字架に架けられるまでの数日間の出来事や教えを詳しく記事にしている。24章では世の終わりについての主イエスの預言が記される。さらに世の終わりに備える姿勢や、天の御国にはどういう人が入れられるのかを主イエスは教えられた。
- 25:35-40は、トルストイ原作「靴屋のマルチン」で知っている人も多いだろう。マルチンの愛の行動を主イエスが喜ばれるストーリーは、私たちの心を打つ。
- その前後の箇所を読むと、栄光の王の座に着いた主イエスの裁きのことばであることに気づく。裁きは「滅び」と「救い」の二つの対照的な結果をもたらす。マルチンは救われる者の姿だが、滅びもあることを忘れてはならない。
2.救い
- 全ての人が栄光の主イエスの前に集められ裁かれる様子は、黙示録20:12を思い出させる。「また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。」
- 「行い」はどう評価されるのかが、今日の箇所で解き明かされている。「空腹な人に食べ物を与え」「渇いた人に飲ませ」「旅人に宿を貸し」「裸の人に服を着せ」「病人を見舞い」「牢にいる人を訪ね」た人は、「最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」(40) と主イエスに感謝され、「あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。」と言われる。
- 「最も小さい者」とは、自分の身を守る術がない人。このことばは、胎児の人権を守るプロライフ活動をする「小さないのちを守る会」のテーマ聖句。
- 私たちが考えるべきことは、「この人を助けるべきか」と迷う時、手をさしのばす勇気を持つこと。真に困っている人には、小さな親切でも必要。
3.滅び
- 救われる人とは対照的に、厳しく裁かれ滅ぼされる人もいる。「王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。」(41)
- 滅ぼされる人は、目の前にいる人を助けず見捨てたことが責められる。もしもそれが自分の家族や友人なら、献身的に助けたかもしれない。しかし見知らぬ人なのであえて関わらなかった。だが、その人は実は、主イエスが深く愛しておられる人だった。主はご自分が見捨てられたと感じるのだ。
- 私たちは自分の味方と敵を分ける傾向がある。敵とまでは言わずとも、関わる人と無視する人に分ける。よけいな干渉を避けるほうがお互いのためと思って、あえて無視することもあるが、「嫌い」な感情の言い訳なら主に見抜かれる。
- 主イエスは心の中までご存知なので、正しく裁く。永遠の刑罰か、永遠のいのちかは、決定的な違い。この教えは、全ての人を救いたいから語られている。悔い改め、主イエスご自身に接するように、どの人も敬おう。
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