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2021年2月28日 主日礼拝
1.自分の「たましい」への呼びかけ
- 詩篇作者は、他者への呼びかけのように、自分のたましいに呼びかける。
この同じ言い方は、42篇で2回、43篇で1回繰り返される。 - また、詩篇103、104篇で「わがたましいよ 主をほめたたえよ。」という形で、5回繰り返される。詩篇以外では創世記49:6「わがたましいよ、彼らの密議に加わるな。」これも詩文なので、詩ならではの語法と考えられる。
- 自分のたましいへの呼びかけは、自分の心の中で行われるので、通常は音声にはならない。そうした心の深い部分を、あえてことばに表現することで、理性でとらえやすくしている。そうやって、自分自身を制御しようとしている。
- 私たちも自分の心がわからなくなる時がある。なぜ自分はこれが嫌なのか。なぜこれに怯え躊躇するのか。物事がうまく進んでいれば悩まないが、困難に直面すると、実は自分をコントロールできないという問題に気がつく。
- 私たちの意識は自分の心臓もコントロールしていない。だからこそ安心して眠ることができる。実際は、自分自身全体のうち、意識できる部分は少ないのだ。
- この問題に気が付いた現代人は、カウンセリングで他者の助言を受けるという方法を開発した。しかし人間のカウンセラーには限界がある。神を待ち望め。
2.信仰のゆらぎ
- 詩篇作者は、厳しい状況の中にいる。10節には敵が自分の信仰を攻撃する、「おまえの神はどこにいるのか」と「骨を砕くほど」きつい言葉が記されている。敵がいるだけでも厳しいが、支えである信仰が傷つけられるのは最もつらい。
- 同様な心理的攻撃は、「お前の母ちゃんでべそ」というような、こども同士の間ですら経験する。相手自身より、その精神的支柱が傷つけられる方がきつい。
- 攻撃者の言葉には二重の問題提起がある。神はいないのか、神に見捨てられているのか。どちらにしても認めたくない。反論しても相手の口を封じることはできないし、封じたとしても、自分の心の中に生じた揺らぎは収まらない。
3.自分自身との対話
- フランシス・シェーファーは、牧師となってから自分自身の内側にある「不信」に気づき、正直に考えるため、牧師をやめてスイスの山小屋にこもり、時間をかけて哲学的な思索をした。その結果、ようやく信仰に自信を取り戻し、自分の経験を生かして「ラブリ」という若者の精神的探求の場を創設した。彼の経験の大切さは、その哲学的思索の成果よりも、詩篇作者のように「わがたましいよ」と正直に語りかけたことである。
- 詩篇作者は思索の結果として、「神を待ち望め」と結論した。なぜなら私たちを存在させた神こそ、唯一の「私の救い」なのだから。
- その具体的な表現として「私はなおも神をほめたたえる」という行動を決断した。それによって、他に真の救いはないことを示し、神に信頼する思いをあらわせるのである。
- 私たちも正直に神に心を向けよう。
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