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2019年10月27日 主日礼拝
1 アラムに拉致された娘の信仰
- アラムはイスラエルの隣国で、時には友好関係を持ち、時には敵対し、幾度も戦争があった。2節の「略奪」は、辺境地域における小規模の紛争。それによって自国の支配地域を広げ、略奪物が国家の収入にもなった。捕虜は奴隷となる。イスラエルから拉致された娘は、そうしてナアマンの妻に仕えていた。
- 彼女は自分の不幸を嘆き、アラム人ナアマンの病気をいい気味だと思って黙っていてもおかしくないが、主人を心配し、預言者エリシャなら治せると伝えた。ナアマンの妻がこれを主人に伝えたのは、娘の正直さを知っていたからだろう。どこにいても、「主が遣わされたところ」と思って生きる人は幸い。
2 アラムの王と、イスラエルの王の対比
- アラムの王はナアマンの回復を願い、イスラエルの王に親書を書いた。彼の真意をイスラエルの王は疑うが、部下のために行動した率直さを学びたい。
- 一方、イスラエルの王は「言いがかり」だと激怒する。しかしその彼のことば「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。」には、正しい神観が示されていることを評価したい。また、激怒したからこそエリシャにも伝えられたので、ある意味、主に用いられた。
3 ナアマンの心の動き
- いくら王の親書を携えていても、敵とみなされ拘束される危険性もある。それでも覚悟してきた。
- ナアマンは「銀十タラントと金六千シェケルと晴れ着十着を持って出かけた。」タラントは34キロ。現在価格は1グラム約70円なので1タラントは238万円。これを運ぶには数十人必要。決死の覚悟がうかがえる。
- ついに会いたいと願っていた預言者エリシャの家の入り口まで来たが、預言者エリシャは姿さえ表さず、「ヨルダン川で7回身を洗えばきよくなる」と言付けられる。ナアマンは怒って帰ろうとした。
4 しもべにいさめられ、従う
- 「難しいことならしたの」という指摘は鋭い。ナアマンは何を怒ったのか?
- 姿を見せない非礼-----自分は礼を尽くしているのに…
- 提案の簡単さ---------自分はどんな難しいことでもしようとしているのに…
- ヨルダン川のきたなさ-自分の国の川のほうがきれいなのに…
→結局、自分に頼っていたので、素直になれなかった。 - いさめることばに素直に従えたことは幸い。それで彼は真の神を信じられた。
5 主は生きておられる
- エリヤもゲハジも「主は生きておられる」と言うが、意味が違う。エリヤは彼から報酬を得ることは信仰をゆがめ、主の栄光を表さないと考えた。ゲハジは、多額の収入を得る絶好のチャンスを主が与えてくれたのにと思った。
- ゲハジはその思いをエリシャに語らず自分で勝手に行動し、身に災いを招いた。主に委ねず、自分の思いを優先するのはかつてのナアマンと同じ。
- 自分を捨て、主にゆだね、主に従う者は幸い。
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