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2019年9月22日 主日礼拝
1.天地は消え去る(35)
- 主イエスは造り主。世を造った方が終わりがあることを宣言された。終わりがいつかはだれも知らないが、必ず終わりがあることは確か。
2.ノアの日と同じように実現する(36-39)
- 創世記にあるノアの箱舟は、世の終わりを示す出来事。神は思い切って全てを滅ぼすこともされることを明確に示した。箱舟が完成したのに、実際に洪水になるまで、人々は滅びを予想できなかったので、8人しか救われなかった。
- ノアの洪水はおとぎ話ではない。地層にある水成岩は大洪水の痕跡。また世界各地に似通った洪水伝承がある。それらの伝承は共通して、大洪水で大多数が死に、ごく少数の人だけが舟のようなもので生き残ったと伝えている。
- 大洪水のような世の終わりの現象が起きてからでは手遅れ。その前に「箱舟」のような救いに入っている必要がある。
3.一人は取られ一人は残される(40-42)
- この教えは「携挙」と思われる。携挙のとき、キリスト者は地上から引き上げられいなくなる。その時は日常生活の中で突然来る。 すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(テサロニケ第一4:16-17)
- キリスト者が携挙されてからでは手遅れ。自分が携挙される側にならなくては。
4.泥棒は思いがけない時に来る(43-44)
- 泥棒は悪賢く隙を狙っている。サタンもいつも私たちの隙を狙っている。
- 犯罪について詳しい人が、狙われやすいケースを解説していた。彼は多くの人々を「危なっかしくて見ていられない」と言っていた。世の終わりが近い危機意識が薄いことを主イエスも戒めている。
5.主人は思いがけない時に帰ってくる(45-51)
- 泥棒のたとえは油断の戒めで、罪の問題の指摘ではなかった。
- しもべのたとえは、主人への不忠実という罪を抱えながら、悔い改めを先延ばししている状態を戒めている。
- 私たちも、自分の人生という家を任された「しもべ」。自分で得たいのちではない。任されて生きているだけ。
- 自分のいのちをどう生きるのか。いのちを与えた「神」が喜ばれる生き方とは「食事時には他のしもべたちに食事を与える、忠実で賢いしもべ」に例えられる。愛と義の神が喜ぶ生き方をしているか。
- 背いているとわかっていながら、悔い改めないでいると、思いがけない時に主人が帰ってくる。予期はできない。
6.主が来られるまで、主に喜ばれるか、厳しく罰されるかは確定していない。その時がいつかはわからないのだから、今、悔い改めて、主を信じよう。
後藤師夫妻のこと
- 中野島キリスト教会初代牧師 9/29寛子姉召天 10/5茂光師召天
- 9/30の寛子姉葬儀に出席。後藤師夫妻が主のみことばを愛し、礼拝を重んじ、お互いを大切にしていたことが証しされ、深い感銘を受けた。晩年の姿に主に従う真実な信仰の姿を見ることができた。彼らの死はキリストを証しした。
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