2019年6月2日 主日礼拝

コリント人への手紙第一 12章3節
國分広士牧師

1 神の御霊によって語る者

  • 人が何かを語る時、その人の意思だけで語っているのではない。その人にその言葉を語らせる意思が背後にある。幼い時から「こういう時にはこう言いなさい」と教えられて育って来た。大人になってからも「こう考えこう語るのが良い」という思想をどこかで学び続けている。学びの場は、人々の会話や、ドラマのセリフなど、無意識のうちにも色々な局面で学び取っている。
  • 最近のこどもは挨拶しない子が多い。「知らない人に声をかけられても返事をするな」と教えられているのだろう。危険から守るつもりで、信頼関係の形成という重要な要素を欠落させいるのは皮肉。
  • 私たちが主イエスを信じる告白をする時にも、自分の意思だけで語るのではない。聖書の教えを知らなければ告白できないし、教えてくれた人の意思にも影響される。さらに神の御霊が告白する者の心を導いてくださって語れる。

2 「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく

  • イエス様を十字架につけた者たちは、本気で「イエスはのろわれよ」と語った。彼らはそうすることで神に従っていると自認した。しかし、ピラトが見抜いていたように、実は妬みからそうしていた(マタイ27:18)ので、神の御霊によって語ったのではなかった。
  • また、イエスの弟子のユダは、師であるイエスを売ったが、彼の心には悪魔も働きかけていた(ヨハネ13:2)。主イエスを信じることと裏切ること、ユダは心の中にある二つの思いのうち、悪魔の思いを選んでしまったのだ。
  • 真に御霊によって語る者はイエスに従い続ける。パウロはいやしを行ったために自分が神様扱いされ、生贄をささげられそうになった時、好都合とは思わず、反感を買うことを恐れずに真の神を礼拝せよとやめさせた。(使徒14:12-19)

3 「イエスは主です」

  • イエスを主と告白するというのは、どういうことなのか?
  • 「主」とは救い主ということ。救い主とは、神の裁きから救ってくださるということ。神の裁きとは、天国か地獄かを神が定めるということ。人は死後にも生き返らされ、神の前でその行いが明らかに示され、正しい裁きを受ける。罪の報酬は死なので、罪人は地獄に落とされる。
  • しかし主イエスは私たちの罪の罰を身代わりに受けてくださり、十字架で死んだ。そして、ご自分を信じる者を、父なる神に対してとりなしてくださる。イエス様は自分のために死に、自分をとりなしてくださっていると信じることが、「イエスは主です」と告白すること。
  • 最初の殉教者ステパノは、主イエスを伝える自分を憎む人々の前で、平安をもって主イエスについて明確に語り(使徒6:15、55)、ついに石打で殺されているその時にも、迫害者のためにとりなした(使徒6:60)。聖霊による告白は決してマインドコントロールなどで言わされているのではない。主に心を開き、心が満たされている状態なのだ。その時、心は平安であり、冷静に正しいことを語ることができる。主に委ねて、主を信じる告白をさせていただこう。