2019年1月13日 主日礼拝

テモテへの手紙第二 3章14~17節
國分広士牧師

学んで確信したところにとどまる(14-15) 

  • テモテへの第二手紙は、パウロが殉教の死を遂げる前に書かれた。死を前にしたパウロは、弟子であり同労者であるテモテに注意し、励ましを与えている。
  • 確信にとどまるというのはどういうことか。仮に高名な科学者に「1+1は2ではなく3だ」と言われも「いや2だ」と答えることのようなものだ。
  • しかし高名な科学者に「空気中の酸素濃度は20%でなく10%だ」と言われたらどうだろうか?確認の術がない人には答えにくいだろう。
  • 信仰の問題も同じ。「イエスは救い主」と信じた人が、別の教えに出会う時に、どう答えるのかということ。「仏教も人を救う教えだ」とか「ご先祖様こそどの宗教より大切にすべき」などと言われた時どうするか?
  • 「郷に入れば郷に従え」という態度は、信仰にもあてはまるのか?教会でも学び、神社でも賽銭を入れ、お寺でも手を合わせるという態度はどうなのか?仮にAさんからBさんは悪いと聞いてうなずいたあとで、BさんからAさんこそ悪いと言われたら、両方にうなずくのか?その態度をAさんに見られたらどうなのか?神は全てを見ておられる。
  • 「学んで確信したこと」にとどまるにはどうするべきか。15節に「聖書は…信仰による救いを受けさせる」とある。いつでも聖書を確認しよう。

聖書こそ真に有益(16-17)

  • 聖書は神のことばなので、人間のことばよりも正しい。聖書にも人間の執筆者がいるが、彼らは神に命じられてそれを書いた。書くように命じ、正しくかけるように守り導かれた神こそ真の著者。
  • 「教え」とは何が正しいのかを示す。「戒め」は何が誤っているのかを示す。野球で言えば、ピッチャーの投げた球を打つというのが教え。打ってもフェアゾーンに飛ばなければファールというのが戒め。この両者はセットであり、片方だけを注目すると律法主義や熱狂主義に陥る。
  • 「矯正」とは曲がった状態を正しい状態にもどすこと。マイナス状態からゼロ状態に戻すこと。「義の訓練」とは、正しい状態に戻った人が、さらに向上していくことを目指すこと。ゼロからプラスへと進むこと。
  • いきなりプラスにはならない。妻に「食卓の準備をして」と言われて手を出そうとすると「その前に手を洗って」と言われることがよくある。まず罪を悔い改め、正しい態度を持たなければ、主のために良い働きをすることは期待できない。
  • どうせやっても大したことはできないのか?いや、17節には「ふさわしく、十分に整えられた者となるため」とある。最初からあきらめるのは、聖書に信頼しない態度。期待を持って聖書に取り組もう。