2018年12月23日 主日礼拝
東の方から来た博士たちは「礼拝するために来ました」と言った。彼らの姿勢から、私たちの礼拝のありかたを考えたい。
礼拝するために来た(2)
- 博士たちはたまたま都合がよかったから来たのではない。遠い地から、時間も費用もかけ、危険も犯してやってきた。
- 世界の支配者である神への礼拝はどこでもできるが、だからといって、自分の都合を優先する姿勢であるなら、真の礼拝であるのか疑問を感じる。
ひれふして礼拝した(11)
- 礼拝における仕草については、特別なルールはない。それでもひれ伏す姿勢には、真剣な思いを感じる。目の前にいるのは1歳足らずの幼子だが、自分がこの幼子の前では小さい存在だということを体で表現したのだ。
- もしもひれ伏す動作が気恥ずかしいなら、博士たちはその恥ずかしさをも神にささげたのだ。恥ずかしさが理由でイエス様の前にひれ伏せないなら、自分をイエス様より上に置いているということ。
贈り物をささげた(12)
- 博士たちは何かを得ようとしたわけではない。王に忠誠を誓う場合、王からは保護を約束されたり、仕事を与えられたりする。しかし、博士たちはイエス様から何かをもらったわけではなく、むしろ贈り物をささげた。彼らが持っている最善のものをささげた。
- 私たちは礼拝に来る時、何かを得ようとして来るのではないだろうか?得ようとするのは「自分のため」が主目的になっている。「神のため」が主目的であるのが、礼拝者の姿勢としては正しい。
星を見てこの上もなく喜んだ(10)
- 博士たちは、礼拝の副産物として大きな喜びを得た。神が自分たちを招いてくださることを知ったからだ。真の礼拝者は、神に仕えることができることに大きな喜びを感じる。
- 「喜び」を得ることが主目的なのではない。もしも自分の喜びが目的なら、他にも、もっと効果的な手段があるだろう。
- しかし、「神に喜ばれる」ためには、神を礼拝する心の姿勢が最重要。博士たちのように、礼拝に出席し、心をささげ、自分の持っている最善のものを捧げよう。