2018年10月21日 主日礼拝

詩篇 119篇129~144節
國分広士牧師

浅はかな者(129-132)

  • 賢い者はわざわいを見て身を隠し、浅はかな者は入って行って痛い目にあう。 箴言22:3(27:12)
  • 浅はかな者はどんなことばも信じるが、賢い人は自分の歩みを見極める。箴言14:15
  • 主のおしえは完全でたましいを生き返らせ主の証しは確かで浅はかな者を賢くする。詩19:7
  • 主は浅はかな者をも守られる。私がおとしめられたとき私を救ってくださった。詩116:6
    →「浅はかな者」とは他人ではなく、自分のこと。自分が浅はかだと知っている者は、口を大きく開けてあえいでみことばを求める。
  • 戸が開いて明るい光が差し込むように、みことばが与えられれば真実が見える。みことばが与えられるようにあわれみを求めよう。

みことばを守らない人に涙する者(133-136)

  • みことばを守らない生き方は、不法に支配され(133)、人を虐げ(134)るなど、愛のない生き方に行き着く。私たちは愛なき者のために、泣いているだろうか?
  • 迫害者を憎む者は、心においては不法と虐げを犯しており、それはむしろ浅はか。悲しむ者は幸い。
    (悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。マタイ5:4)

「激しい思いを抱く者(137-140)

  • 「私の敵」はみことばを忘れている。(139)それを「バカだ」蔑むのか、「あまりにも残念だ!」と嘆くのかではその後の歩みに差が出る。蔑みは何も生み出さないが、嘆きは祈りを生み、祈りは宣教につながる。
  • 敵に無関心になるのでなく、「激しい思い」(139)を抱くほど嘆こう。そして彼らが「よく練られて」いるみことば(140)の真実を知ることができるように祈ろう。

取るに足りない者(141-144)

  • 敵にとって自分は取るに足りない者と蔑まれているかもしれない。しかし、あざける者が無視している主の戒めを忘れずにいられることのほうが、実は幸い。(141)
  • 「苦難と窮乏」に襲われているかもしれない(143)。しかしその困難の中で、主の仰せを喜ぶ者は幸い。