2018年9月23日 主日礼拝
あなたは私の隠れ場 私の盾。私はあなたのみことばを待ち望みます。(詩篇119篇114節)
愛は神から(7-8)
- 通常、人が「愛」について考える時、人の愛を思い浮かべるが、ヨハネは神の愛を前提として「愛し合いましょう」と語っている。
- 人の愛は、純粋ではない。人は心に罪深い思いも持っているので、その愛にはわがままな部分も結びついている。だから自分の良いと思うものを人に差し出しても喜ばれるとは限らない。あくまで自分の基準を人に押し付ければ「わがまま」と嫌われることもある。
- ヨハネは自分の思いを基準に愛し合おうと言っているのではない。神の愛を基準に愛し合おうと呼びかけている。では、神の愛とはどういう愛なのだろうか。
神の愛は「ひとり子」によって示された(9-10)
- 神のひとり子のイエス様は人となる前から神であり世界を創造された方。 この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。 (ヨハネの福音書 1:2-3a)
- 神は人をご自分に似せて造ったので、親が子を思うように、人に深い関心をもっている。生きても死んでもどうでもいいのではない。良い生き方をするように期待しておられる。神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。(創世記1:27)
- しかし人は神の期待に背いて罪を犯しているので、罪を嫌う神は、愛する人を裁かなければならない。罪の報酬は死(ローマ6:23)。
- 神は死の裁きを身代わりに負うために、ひとり子イエスを人としてこの世に送り、十字架に架けさせた。愛するわが子を犠牲にしても救おうとするのが、神の愛なのである。
神の愛に応えたい(11)
- 神の愛に応えたくても、どうしたらいいのか?神は見えない。TVで願い事をする人が「お賽銭を奮発」という場面があったが、神ご自身はお金は使わない。また、何かに不自由しているわけでもない。
- 私たちができるのは、目に見える相手に対してだけ。しかし神はその相手も愛しているので、神の大切なものをいっしょに大事にすることはできる。だから「互いに愛し合おう」とヨハネは呼びかける。
- 廣瀬薫師は「神の国を建設するのは、たとえば自分が落としたのではないゴミを拾うことだ。」と語った。神も自分が犯したのではない罪を贖ったのだから、私もせめて人の落としたゴミを拾いたいと。
- まず主イエスを信じて、その愛に応えたいという願いをいただこう。