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2018年9月2日 主日礼拝
賢さ(v98「敵より賢く」v99「師にまさる賢さ」)
- みことばは私たちに知恵を与え賢くする。
- なぜか?それは真に知恵のある方のことばだから。
- 人間の知恵には限界があり、しばしば誤る。人間は「無限」も「永遠」も理解できない。いくら想像しても体験知ではないので、「こうかもしれない」という憶測でしかない。
- 「敵」は神を知らない。「師」も人間の知恵しか持っていない。彼らが全能の造り主を知らないなら、それを信じる者のほうが知恵がある。
見極め(v100 v104)
- 老人は人生経験が豊富で、何がしてよいのか、何をしたらいけないのかを見極める知恵がある。
- 「老人」がピンとこないなら「熟練工」と置き換えてみればいい。ちょうど良いベストな加減を知る熟練工の腕に私たちは驚嘆する。
- 熟練工は経験知を豊富に持つ故に見極めができる。しかし未経験のことはわからないし、完全に過去と同じ経験ということも存在しない。さらに衰えもある。
- 永遠に変わらない神のみ教えに従うことは、熟練工以上の見極め。それを体験するなら、熟練工の腕に驚嘆する以上に感動を覚え「みことばは甘い」と感じる。
道の光(v105)
- 「ともしび」は古代社会においては、最も日常的なあかり。古代社会では夜は真っ暗で、小さくても光があることに、人々は安心感を抱いた。
- 私たちの人生は暗い夜道を歩くようなもの。明日を知らないから。突然、思いがけない出来事で人生が大きく変わることを、誰もが経験する。
- 夜道に明かりが必要なように、未知の明日に向かう私たちには神のみことばという光が必要。神は明日を知っておられるだけでなく、積極的に明日を作り出しておられる。全てを計画されている。
- 私たちは予想外の苦しみを経験すると「なぜ?」と思うが、67節や71節には苦しみでみこころを学ぶという意義が語られている。
- 同じことを経験しても、感謝できるのとできないのとでは決定的な違い。「足のともしび」や「道の光」は、時には災いを未然に避ける助けとなり、時には自分の行く道を塞ぐものを見極めることで、自分の誤ちを悟らせ、引き返す決断をする助けを与える。
- 人生において様々な困難を経験することは誰にでもあるが、みことばの光で導かれるなら、罪を避けたり、誘惑を反省したり、過ちを悔い改めたりして、結局は正しい道へと進むことができ、感謝ができる。日々、みことばを求め、みことばを携えて歩もう。
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