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2018年8月26日 主日礼拝
必要を自覚しているかどうか
- 「医者嫌い」「病院嫌い」な人がいる。医者といえど人間であり、間違いも犯す。ならば自分で治したほうがいいと思っている。しかし、自分も間違いを犯す人間。軽い病で済めば良いが、自分頼みで深刻化することもある。自己過信は危険。
- 自分では治せないと自覚している人は、医者に頼る。必要を自覚しているかどうかで、生き方が変わる。本当に必要だと思うなら、人は何でもする。「大切」とは思っていてもしないことがあるなら、「必要」とまでは思っていないということ。
- 霊的な健康においても同様に言える。自分を自分で救えないとわかっている人は、他の誰かに救いを求める。
主イエスがこの世に来られたご目的
- 主イエスは罪人を招いて悔い改めさせるために来られたと語っている。
- 「罪人」とは誰か?この箇所は、取税人だったレビ(マタイ)が主イエスの弟子となる記念として、主イエスのために家もてなしをしていた場面で語られている。取税人はローマ帝国の手先となり、自分の利益のために自国民を裏切っている売国奴であり、不正な取り立てもしていた。パリサイ人は取税人を罪人とみなしていた。
- この箇所の前には、ツァラアトの癒しと中風の癒しという病人の癒しの記事が二つある。病人の癒しそのものに関しては、誰もが驚き神をあがめた。しかし、罪人とみなされていた取税人が仕事を捨てて主イエスの弟子となったことについては、賞賛も感謝も起きないのはなぜか。
- 主イエスとしては、病を癒すことよりむしろ、レビのように、悔い改めて罪深い自分の生き方を捨てて主イエスに従うことを願っておられた。それこそ、神の子である主イエスが人となられた目的だった。
自分にとって主イエスは必要なのか
- 主イエスの弟子となった取税人レビと、レビに冷淡だったパリサイ人の姿は対照的。どちらが主イエスを必要としていたか?
- 医者を必要とするのは病人。主イエスを必要とするのは罪人。いや、正確に言うなら、自分で自分を救えないと自覚している者。
- 私たちは主イエスを必要としているか?誰かに頼る必要はないと思っている人は、自分を頼っている。自分を頼りとしているうちは、主に頼ることはできない。私たちが真になすべきことは、重病人が医者に身を委ねるように、自分の罪深さを認め、罪をあがなってくださると約束しておられる主イエスに自分を委ねること。
- 過去に主イエスに委ねたことがありながら、今は委ねていないとするなら、いつの間にか罪の自覚が薄れたということ。本当に罪人ではなくなったのか?今もなお頼り続けるべきではないのか?
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