2018年4月15日 主日礼拝
1 主にあって喜ぶ。(1-3)
- 1-10節は、幼子サムエルを、祭司エリに託したハンナの祈りのことば。ここには幼い我が子との別離を悲しむ様子は感じられない。主を信じ、期待し、こどもにとっても、最も良い選択をしたという自信があるのだろう。
- 彼女は主にあって喜ぶ。それは単に喜ばしい出来事があったというような喜び方ではない。出来事には良いことも悪いこともある。ハンナの経験を考えても、辛い時代も通ったのだ。しかし主の愛は変わらない。辛い時にも豊かな時にも主の愛は注がれていた。人間の思いを超えた偉大な方にあって喜ぶという姿勢なら、いつでも喜べるのだ。
- ハンナは主をたたえ、自分自身は主の前に鎮まろうとしている。恵みを得たからといって、自分を人生の勝ち組だと誇っても、そのあとでまた何が起こるかわからないのだ。
2 エリ父子の問題。(29)祝福ものろいも主による。(4-8a)
- ハンナは自分が苦しみの後に祝福された経験から学び、それまでに人類が経験してきたことからも、同じ教訓を学べると考える。
- 戦いにおいても勇士が弱者に負けることもある。貧富が逆転することもある。
- そうした人生の逆転の背後には主のみこころがある。偶然ではない。運命でもない。人のあゆみに目をとめ、評価し、正しい報いを与えようとする主のお考えがある。
- 主の報いがすぐに与えられないからといって、遅すぎると考えるのは、信仰のない人間の思い。主のさばきに満足せず、自分が判決を下したいから文句を言う。主の時を待てず、自分の許容範囲内で裁きを見たいから、失望する。
- 人間は報いを受ける者であって、報いを与える者ではないことをハンナは考え、静まる。自分もまた、報いを受ける者にすぎないのだと。
3 主はさばき主。(8b-11)
- どんな優れた者も、自分の能力で主に勝つことはできない。私たちは主の造られた世界に生かされている被造物に過ぎないのだから。主はご自分に逆らう者を滅ぼす。
- 私たちの望みは、この偉大な主に愛され、赦され、恵みを受けること。被造物に過ぎないことをわきまえ、偉大な主に造られたことを喜び、偉大な方が自分にも目をとめてくださることに感謝しよう。
4 ハンナへの祝福。(18-21)
- 祭司エリも、ハンナを偉いと思ったようで、いつも祝福を祈った。他の人にも祈っていただける人は幸い。この点でもハンナは恵まれていた。
- サムエルを祭司エリに託した後に、ハンナにはこどもが次々と与えられ、三人の息子と二人の娘を産んだ。
- この祝福をギブ・アンド・テイクと考えてはいけない。神ととりひきをすることはできない。あくまで祝福である。
- しかし、幼子サムエルを主にささげ、しかもそれを悲しむのでなく、主に信頼し。主をたたえたハンナが祝福されたという結果を心にとめよう。