2015年4月19日 主日礼拝

創世記 22章1~19節
國分広士牧師

1.試練を与えた主

神が全能であり、愛であると思うと、ではなぜ人には苦しみがあるのかと疑問がわく。神が愛をもって「試練」という苦しみを与える事例を学ぼう。神はアブラハムに様々な経験を与え、その信仰が十分成長してから、最終試験のような試練を与えた。それは彼の人生における最大の祝福である、愛するひとり子イサクをささげよという命令だった。

2.試されたアブラハム

アブラハムにとってイサクを失うこと以上の痛みはない。なぜよりによってイサクなのかと疑問がわく。また、動物でなく人間をいけにえにするのは、主が嫌われることではないのかとも。さらに、イサクから「いけにえの羊は?」と尋ねられ、何か答えなくてはならないのは最も辛い。へブル11:17-19には復活を信じていたと記されている。このとき「神ご自身がいけにえを備えてくださる」と答えたのは主イエス・キリストの十字架の預言となった。

3.犠牲を用意しておいた主

本当に主は犠牲の羊を備えておられたが、ギリギリの時まで、アブラハムには真相はわからなかった。「なぜ」と問いつつ、明確にわかっているみこころに従って歩んだ。信仰とはこういうもの。申命記29:29参照。自分の抱いている方向と食い違っていても「みちしるべ」に従うことが、幸いなゴールにつながる。アブラハムはイサクとともに死を覚悟し、イサクとともに主の声を聞き、イサクとともに犠牲の羊をささげ、信仰を息子にバトンタッチする幸いな経験が与えられた。主の御名はほむべきかな。