2015年3月29日 主日礼拝

ルカの福音書 22章39~46節
國分広士牧師

1.主は苦しんで祈っていた

主イエスは非常によく祈る方であった。父と心を通わせるため、リアルに父に語りかけた。十字架を目前にし、正直に心の恐れを告白できるのは父だった。父は救いの計画の最高責任者として、主イエスの十字架の死を計画していた。私たち人間の罪の罰を身代わりに負って死ぬことで、私たちの罪を赦そうと計画された。主イエスはいのちそのものであるお方なのに、死のうとしている。その恐れの深さは想像しがたい。

2.み使いが主を力づけた

主イエスが恐れもだえるとは、あまりに異例。こんなことはかつてなかった。み使いが主を力づけるということも異例だろう。死ぬはずがない方が死ぬというのは、どんなに大変なことか。弟子たちもイエスの常ならぬ様子を見て祈っていた。少なくとも天使が現れたのは目撃していた。しかし、それでも祈り終わらないので、ついに力尽きて眠り込んでしまった。わざわざ天から力づけに来た御使いとは対照的。

3.なぜ眠っているのか

「悲しみの果て」とあるので、主の感情を感じ取り悲しんでいたが、受け止めきれないほどの感情だったのだろう。あまりに激しく感情をゆさぶられたので、防衛本能で、感じないで済むように無感覚になり、考えなくて済むように眠くなったのだろう。しかしそれは自分を守っているのであり、主のことは考えていない。主は弱い私たちを救う方。起きて、主と心を通じ合わせるために祈ろう。