2015年2月15日 主日礼拝

創世記 18章26~33節
國分広士牧師

1.あえて申し上げる

主は50人の正しい人がいれば、町全部を赦すと言ってくださったが、アブラハムはそこでさらに祈り続ける。まるで値引き交渉をするように、神に食い下がって、50人に5人欠けるだけでも滅ぼすのかと尋ねた。線引きとあわれみのどちらを重視するのかを尋ねている。

2.もしやそこに

主があわれみを重視することを確認したアブラハムは、あくまで丁寧にへりくだりつつも、「もしやそこに」と、40人なら、30人なら、20人ならと幾度も尋ね続ける。アブラハムは赦しを願い問い続けたが、主も応答し続け、ご自分のあわれみ深さを明らかにされた。パウロは3回求めて主に「十分だ」と言われたが(2コリ12:9)、アブラハムのとりなしの祈りは「くどい」と拒まれなかった。アブラハムの交渉で赦しの基準を下げたのではなく、最初から主も赦したい、救いたいと思っておられたのだ。

3.今一度だけ

アブラハムはついに6回主に尋ね、「もしやそこに十人見つかるかもしれません」と述べ、主は赦しを約束された。アブラハムはそれ以上は尋ねなかった。なぜか?主のあわれみ深さと、その主があえて裁こうとされるソドムの罪の深刻さも納得し、結果を主に委ねたところで祈りが終わったのである。ここには祈りの原則がある。まだ委ねられないなら、委ねられるところまで祈り続けよう。主に委ねたときに、平安が与えられるのである。