2014年2月9日 主日礼拝

ルカの福音書 24章13~35節
丸山告スタッフ

イエス様の弟子 2人が歩いているシーンです。クレオパともう一人の弟子は、復活したイエスさま本人と合流します。でも、なぜか不思議なことに、この2人はその人がイエス様だとわからない。本人を目の前にしているのに、そしてその本人の話をしているのに気がつかない。こんな状況があるでしょうか?これは私たちの本来の姿なのです。
 16節「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとわからなかった。」理由はこれです。目が遮られていた。
この箇所で語られていて、 聖書全体が語っているひとつの事実は「神は共におられる」ということです。なぜそれを感じないかというと、私達の目が遮られているからです。
 遮られる理由を2つ挙げます。
1:イエス様に対して勝手に間違った解釈をして期待している。
2:イエス様が過去の人になっている場合。
 この状態は、神が共におられてもそれを感じる事が出来ません。彼らが主イエス・キリストに気付いたのは、主ご自身がパンをさかれた時でした。十字架を想起したときに、目が開かれたのです。
 私達の歩みにおいて、イエス様の十字架だけは外せません。
 そこには犠牲を伴ったからです。価値のない私達のために、神様が御子であるイエスさまを捧げてくださったからです。
私たちの目がいつも十字架へと向けられ、十字架を信仰の中心として歩んでいきましょう。