2025年7月13日 主日礼拝

序
「救い」は「行い」ではなく「信仰」による。すると行いにはどんな意味があるのか?
1.神の賜物(8)
- 全ては神の恵み。「天地創造」から始まる、恵みの連続。
- 神に背き裁かれるべき私たちの罪を贖うキリストの十字架も恵み。私たちが悔い改めたから贖ったのではない。私たちが願うより先に神は救いの計画をたて実行された。
- イエス・キリストを信じる信仰も賜物。聖霊によらなければ誰も主イエスを信じる告白はできない。(神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。コリント第一12:3)
- 全ては神が計画し支配しておられる。神は恵み深いので、神の支配は救いそのもの。
2.人間の自由意志は?
- 私たちには意志がある。しかし、全て神に決められているなら、自分の意思に意味を感じなくなる。
- 10節に「良い行いをするために」とある。やらされる行いや、見掛け倒しで真意と裏腹な行いではなく、自発的な行いにこそ価値を感じる。何を行い、何をあえて行わないのかといった「行い」にこそ、人間の意思が表れる。
- 神が全てを支配されているというのは、信仰的な理解であって、自分の感覚では、自分には自由な意思があると感じている。その意思をどう用いるのかが私たちの課題。
3.良い行いを備えていてくださる
- 神は人間に良い行いをする機会を与えられる。アダムとエバにも与えた。彼らは誘惑を受けた時に、自分の意思で誘惑を退けるチャンスがあった。そうできたなら、大きな喜びを、神と共有できたはずだった。(創世記3章)
- 私たちは神の作品。創造と救いの二重の意味で神の作品。自分が神の作品であると自覚するならば、神の作品らしく行いたいと願うようになる。
- 主イエスはゲッセマネの祈りで、父に苦難から逃れることを願いつつ、すべて父の考え通りにされることを求めた。主イエスには、父の考えに従いたいという強烈な願いがあったので、それは苦難を逃れたいという願いを圧倒したのだ。そうやって主イエスは自分の意思で、父に全てをゆだねるという良い行いをされた。(「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」マタイ26:39)
結
- 私たちにも、神の喜ばれる道を選択する機会が与えられている。それは小さなことかもしれないが、神は小さな行いも見ておられる。2レプタ献げたやもめは1レプタにしても誰にも文句は言われなかったが、あえて神に献げたので、主イエスに喜ばれた。(一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」マルコ12:41-44)
- 私たちも神の備えてくださっている「良い行い」を選び取ろう。