2025年2月16日 主日礼拝

ヨシュア記8章1-2節

國分広士牧師

  • 私たちはしばしば失敗する。失敗の後、どうするかが、人生の分かれ道になることもある。イスラエルはアイに敗れ、敗戦の原因となったアカンを処罰した。ここからが大切。敗れた相手と再戦し、勝利を得るか否かで事は大きく変わる。主はどのように勝利に導かれたのかを学ぼう。

1.主は励ましによって立たせてくださった

  • 主は勝利を約束し、再度の攻撃を命じた。挫折した者にとって、この励ましは大きい。挫折は自分を失格者だと思わせ、また同じことの繰り返しではないかと思わせるから。
  • 主への信仰があれば、「主が約束された」ということで、積極的に問題に向かうことができる。信仰がないと、「そんなことを言われても難しい」と思うかもしれない。
  • 正しい信仰がなくても、「励まし」そのものを求めているなら、主の励ましも喜ぶ。しかしその場合は、根拠のない励ましであっても信じてしまうので、危険性をはらむ。
  • 全部「聖絶」ではなく、一部を戦利品にして良いとされたのも、主の励まし。勝利が個人的にもメリットがあると思えば、より積極的になれる。ただし、戦利品をどう分配するかという課題が生じてくることも見落としてはならない。

2.主は全員でやるように言われた

  • 主は「戦う民をすべて率い」と言われた。前回は、自分たちの強さを過信して、力の出し惜しみをして、3千人だけを派遣して敗れた。真に反省するなら、今度は全力で事にあたるべきである。
  • とはいっても、エリコは男女合わせて1万2千人。イスラエルの戦う民は60万人。いくらなんでも全員行くのは大袈裟ではないか?などと考えるのは、自分の力に頼む過信。主は全力で事に当たれと命じている。その主のことばに従うか否かが真の課題なのだ。自分ではなく、主を信じるかどうかは、素直に従うかどうかに表れる。

3.主は伏兵を置けと言われた

  • 主は伏兵を置き、わざと逃げて敵を誘い出し、挟み撃ちにする作戦を指示した。はまれば効果は絶大だが、戦略としてはよくある手であり、見抜かれる可能性も十分にある。
  • こうした奇襲作戦は、どちらかというと、弱者が強者にしかける作戦。正々堂々とした戦い方ではない。60万人で行くのだから、正面攻撃で良いのではないかとも思える。自分たちが弱いことを素直に認める姿勢がないと、伏兵案は採用しにくい。
  • この作戦のポイントは、民の間に役割分担があり、互いを信頼しないとできないこと。過信があると、互いを必要とし信頼することができない。自分たちが弱く力がない者であることを認めてこそ、協力しあうことができる。そして、良い結果を得るなら、互いの信頼関係が深められる。

4.アイの滅び

  • アイの人々は伏兵に気が付かなかった。一度勝って、高慢になっていたのだ。「高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。」(箴言16:18)
  • 作戦通りに行動したイスラエルは勝利を得た。おそらく喪失なしで、全面的な勝利を得たことが重要。勝ち方にも色々ある。 

  • 失敗後の成功には、大きな意味がある。
  • 「順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。これもあれも、神のなさること。後のことを人に分からせないためである。」(伝道者7:14)
  • 「伏兵を置け」という作戦は主から与えられていた。人間は出し惜しみをして全力を尽くさなかったり、反対にムキになって力を浪費し、次の歩みに支障をきたしやすい。自分を過信するのではなく、主を信じ、主に従うことを選び取ろう。