2025年1月12日 主日礼拝
序
与えられた機会をどう活かすのか。ラハブの事例から、彼女が与えれた機会をどう活かしたのかを学ぼう。
1.ラハブは斥候をかくまった
- ラハブは自分の家にいるイスラエルの斥候を探しに来た王の家来と応対する。
- ラハブ自身はエリコの住人。自分の王に協力するのは国民の義務のはず。「ここにいます」と正直に言えばエリコの王に忠実な模範的国民。嘘をつくのは裏切り者。
- 人をかくまうために嘘をつくという行為は、どう理解したら良いのか?
- 遊女なので、道徳心が薄かっただけなのか?
- 近代的な事例としては、ナチの追及からユダヤ人をかくまった人々を思い起こす。そうした行為は「抵抗権」(権力者が明らかに誤っている場合は、従う者は抵抗する権利がある)として正当化される。
- ラハブにとっては、自身の国の王と、イスラエルの神と、どちらを恐れるのかという問題だった。言い換えれば、人と神のどちらを恐れるのかということ。それが問われる機会が与えられた時、彼女は神を恐れる方を選択したのだ。
2.ラハブは主への信仰を告白した
- 9-11節に、ラハブの主に対する信仰心が明確に述べられている。
- ラハブは、頭ではイスラエルの神こそ、真の神だと思っている。しかし、その神に仕えているわけではない。エリコの街で生活しながら主に従う生き方はできない。
- ということは、彼女は自分は真理を知りながら、真理に逆らった生き方をしていると、自分のなげかわしい状況をわきまえていた。
- 主の民が自分の前に現れた時、彼女は自分の思いを告白できる機会を得た。内心を告白するかどうかは個人の選択。黙っていることもできる。彼女は語る方を選択した。その告白は斥候にとっては重要な情報だった。同時に、エリコ人でも主を恐れる者がいると、主の栄光が表わされる意味でも重要な告白だった。
3.ラハブは命乞いをした
- 斥候にラハブは自分と家族の命乞いをした。この訴えをするかどうかは、彼女の自由。斥候を逃すだけで、命乞いのようなみっともないまねはしないこともあり得る。それでも恩義を感じた者は恩を返したいとは思うだろうが、うまくいくかどうか。
- 命乞い→助けるための手段の提案→提案の実行といった流れになる。まず命乞いをしないと、こうした流れにはならないだろう。
- 命乞いは危機意識がなければできない。
- 命乞いは謙虚でなければできない。
- ラハブの命乞いは主を恐れ、主を信じる態度を非常によく表している。彼女は命乞いができる機会を与えられ、その機会を活かしたのだ。
- 私たちはどうだろうか。主にすがる信仰を持っているだろうか。主に頼らなくても大丈夫と思ってはいないだろうか。
結
- 与えられた機会をどう活かすかに、その人の心が現れる。
- 人より主を恐れ、主のことばに従うなら、こう生きるべきだという選択をしたい。