2024年10月6日 主日礼拝

イザヤ書62章6-7節

國分広士牧師

1.ふりかえって考える

  • イザヤ62:7の「主を休ませてはならない」という言葉は、どういう意味なのだろうか?
  •   まさか主をしもべのように働かせようという意図ではないだろう。
  •   意味を理解するため、冒頭の1章のことばをふりかえる。
  • 1:2-3に、主の嘆きの言葉が記されている。「わたしが育てて、大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。…イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」
  • 表面的には主を崇める宗教儀式をしているが、その心が主から離れて罪深いので、「あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、それを担うのに疲れ果てた。あなたがたが手を伸べ広げて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを多くしても聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。」(1:14-15)
  • 自分自身で立ち返ることができないイスラエルを、主がさばき、贖う。「わたしは逆らう者に思いを晴らし、わたしの敵に復讐する。…シオンは公正によって贖われ、その町の立ち返る者は義によって贖われる。」(1:24-27)
  • ふりかえると「主のさばきと贖い」が、イザヤ書全体のテーマ。疑問の箇所も、このテーマに沿って考えると、その意味が見えてくる。

2.見張り=主に求める者を、主が置かれた

  • 見張りは夜も寝ずに、危険がないか注意深く見守り、もし問題があれば大声で皆に呼びかける。主に祈り求める者は、見張りのような存在だと、主は言われる。
  • 見張りが問題を見ないなら、見ていても声をあげないなら、その存在には意味がない。
  • 実は見張るべき問題がたくさんある。現代は世界中のニュース情報が届く。災害、戦争、経済の動向、スポーツ、文化的イベントなど、世界中のニュースに耳を傾けるなら、絶え間ない。
  • 実際には人間の心のキャパシティの限界で、全ての情報を扱うことはできない。誰もが自分の関心を絞り、あることを見て別のものを見ないでいる。すると、真に大切なものを見失うこともある。
  • 霊的な問題は見失いやすいが、実は過ぎ去る地上の出来事より、永遠のいのちを得るかどうかはもっと大切な課題。主が置かれる見張りは、魂の必要を見張り、主に訴えるのが役目ではないだろうか。

3.主がエルサレムを堅く立てるまで

  • 主の「主のさばきと贖い」のわざは、まだ終わっていない。贖いの代価は十字架で支払われたが、代価が支払われたことを宣べ伝える宣教は現在進行形。さらに世の終わりと、救いの完成である新天新地が造られるまでみわざは続く。現代はいわば建築途上の建設現場。工事現場でも見張りが注意を呼びかける。見張りの役目は終わっていない。
  • 祈りは主への信頼と期待の表れでもある。信頼しない相手なら無視するか、口を開いてもヤジを飛ばす。期待できないと祈れない。期待しないなら、言葉を失ったり、皮肉を言ったりする。
  • しかし、主に置かれた見張りは黙ってはいけない。主は目を覚まして祈れと命じる。
  • 主は疲れることはない。
  •    あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。
  •    疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。
  •    疲れた者には力を与え、精力のない者には勢いを与えられる。(40:28-29)
  • 主は疲れることはないと信じ、力を与えてくださると信じる者は、熱心に祈る。私たちは熱心に祈っているだろうか。主を休ませてはいないだろうか。