2024年8月11日 主日礼拝

イザヤ書57章15-16節

國分広士牧師

真理の求め方には二種類ある。第一のタイプは人間が努力して真理を探求すること。仏教の悟りはこのタイプで、日本人は仏教の影響で「悟り重視」の志向性がある。第二のタイプは神が人間に啓示した真理を学ぶこと。その代表が聖書。第一のタイプは真理を勝ち取った者に栄冠が帰せられる。しかし第二のタイプは真理を与えた方に栄冠が帰せられる。聖書を学ぶには、身を低くして、主に教えを求める姿勢が必要。

1.主は高く聖なるところに住む

  • 世界の造り主である主は、どこにおられるのか。主は「わたしは、高く聖なる所に住み」と言われる。造り主は造った世界に縛られない。家を建てた大工はその家に住むとは限らない。宇宙の隅々まで探しても創造者を見つけられなくても不思議はない。
  • 「高く聖なる所」とは天国としか言いようがない。人間の探求の届かない領域。知的にも高度すぎるし、それ以上に聖さが求められるので、罪人は入れない。聖く造りかえられなければならない。

2.主はへりくだった人とともに住む

  • では主なる神とは交われないのか?そうではない。神ご自身が私たちに近づいてくださる。神は造った世界に縛られないが、愛を持って近づいてくださる。大切なのは、人間の探求より神の啓示。
  • 「へりくだった人とともに住む」という点に注目しよう。これはどういう人か?
  • ・「砕かれた人」とは、自身の罪深さを認め、神に赦しを求める人。
  • ・58章には「断食」の言及がある。断食は外見的には「砕かれへりくだった人」に見える。
  •  しかし、58:6-7には「わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見てこれに着せ、あなたの肉親を顧みることではないか。」と記されている。食べる食べないは自分のことだが、愛と正義の行いは、他者のため。他者への愛の行いを主は喜び、その人とともに住む。

3.主は永遠に争うことはない

  • 主が怒っておられるように感じる現実の中に私たちはいる。しかし「わたしは、永遠に争うことはなく、いつまでも怒ってはいない。」と言われる。それは、怒りすぎると「わたしから出た霊が衰え果てるからだ。」
  • ヤコブ4:5-7を参照
  • それとも、聖書は意味もなく語っていると思いますか。「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。神は、さらに豊かな恵みを与えてくださる」と。それで、こう言われています。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。

主の前にへりくだろう。
    苦しみにあったことは私にとって幸せでした。
    それにより私はあなたのおきてを学びました。(詩篇119:71)