2024年8月4日 主日礼拝

イザヤ書55章6-9節

國分広士牧師

「旧約聖書は難しい」と言う人がよくいるが、新約聖書、それも福音書を中心に読んで「これが聖書だ」と思うから、旧約聖書に違和感を感じるのだろう。しかしイエス様は「わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」(ルカ24:44)と言われた。旧約聖書はイエス様について書かれている。特にイザヤ書は、イエス様のことがよく書かれている。

1.主を求めよ

  • 主イエスは「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7:7)と教えた。父なる神への信頼の現れとして求めることを大いに奨励されている。
  • イザヤは「主を求めよ。」と言う。「主に求めよ」とは違う。「に」なら、求めの内容は特定されないが、「を」だと、主ご自身を求めると言うこと。
  • 「主を求めよ。」は、いくつもの内容を含んだ表現。①「主に悔い改めて罪を赦していただき」、②「主との交わりが回復し」、③「主の救いのご計画が実現することを求め」、その結果として④「自分自身も祝福を受け」ることで、⑤「主の栄光が表わされ」ることを願うのが、「主を求めよ」という勧め。

2.お会いできる間に

  • 「できる間」ということは、できなくなる時が来るということ。「今は恵みの時、今は救いの日」(第二コリント6:2)とある。主のみことばが宣べ伝えられ、信じる機会がある今は恵みの時。機会を失ってはいけない。
  • お会いできる間に、するべきことは何か。
  •   ①「悪しき者は自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。」(7節)
  • 罪を捨てる。罪深い行いを繰り返さないこと。「どうせきよくはなれない」と言い訳をするのは、罪を捨てたくないから。罪ではなく主を求めよ。
  •   ②「公正を守り、正義を行え。」(56:1)
  •  「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ」(56:4)
  • 罪深い生き方から、積極的に良い生き方をする。罪を償うためではない。罪の償いはイエス様がしてくださった。「わたしの喜ぶこと」すなわち神が喜んでくださるために良い生き方をするのだ。それが主を求めると言うこと。逆に、避けるべきは主が悲しまれること。主の心を求めよう。
  • 与えられた日々の間に、罪を捨て、良い生き方をして、主を喜ばせよう。「孝行したいときに親はなし」とはならないように。  

3.主の思いは私たちの思いより高い

  • 私たちが悔い改めても、本当に受け入れられるのか?人が人を赦そうとすると、難しい場合もある。とうてい赦せないと思うことも。しかし主は「豊かに赦してくださる」。
  • なぜ豊かに赦せるのか?「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。」とある。神のお考えは高い。
  • 神の思いの高さを最も表すのが、キリストの十字架の贖いによる救い。罪人の罪を神ご自身が身代わりに背負って償うと言う救いの方法は、他の教えにはない。罪深い人間が思いつけることではない。

 主の愛と赦しを信じ、主を求めよう。