2024年6月9日 主日礼拝
序
主が「忘れない」と強調されるのはなぜか?それは「主は私を忘れた」(14)と嘆く者を励まそうとされるから。ではなぜ嘆くのか?また主はどのように励ましておられるのかを学ぼう。
1.嘆き
・イザヤ書が書かれた当時の、最も大きな脅威はアッシリア帝国だった。隣国イスラエルは滅ぼされ、ユダも滅亡寸前まで追い込まれた。一旦は引き上げても、またいつ襲いかかってくるかわからない。結局はアッシリアはバビロンによって滅ぼされる。しかし、やがてユダはそのバビロンによって滅ぼされることになる。自分たちがどうにもできない強大な大国の思惑によって、自分たちの運命が決まってしまう事実は、人々の希望を砕き、「どうせ思うようにはならない」という嘆きを生む。
・隣国イスラエルの救いを、身内であるユダの人々も祈ったことだろう。しかし滅んだ。主は祈りに応えてくださらなかったといった、信仰的な挫折もあったのではないか。
・こうした嘆きは、私たちも持っているのではないか。自分の意思や努力でも、さらに主に祈っても、自分が真に期待する結果を得られないという嘆きを。
2.たとえ女が忘れても
・絶対に忘れないと言う事例として、主は乳飲み子を抱えたお母さんや、妊娠中の女性を思い起こさせる。彼女たちの関心の中心は「我が子」。忘れるはずがないと言う比喩。主はそれ以上に忘れないと言う。女は与えられたいのちを産み育てるだけだが、主は一人一人を創造するところから、そのいのちに関わり、さらに地上の命が終わっても、その魂を慕い続ける。それは母親以上。いかに強い関心を持って私たちを見ていてくださるのか。
3.恵みの時、救いの日に
・8節に「恵みの時」「救いの日」という記述がある。主は時を定めて事を行う。神の定めた時が来るまで、そんなことは起こるはずがないと思える。ユダがアッシリアから守られたときも、一夜にして敵の大軍が滅びるという信じがたい出来事が起きた。
・大逆転で救われる事例はいくつもある。出エジプトの紅海を渡った事例、ダビデが巨人ゴリアテを打ち負かした事例など。しかし最大の逆転は、主イエスの十字架の死による、私たちの救いである。罪深い私たちが神に赦されるのぞみなどないように思える絶望的状況を、主イエスの十字架が変えた。
結
主は絶対に私たちを忘れないと信じ、救いの時を待ち望もう。