2024年6月16日 主日礼拝

イザヤ書50章4-5節a

國分広士牧師

1.主の弟子

  • イザヤのような主のしもべ(10)によって、神である主のことばは民に語られた。主のしもべは「弟子」とも言われる。主のことばを語るために、まず自分が主のことばを学ぶという立場を理解する上で「弟子」という表現は大切。私たちは主の弟子という自覚を持っているだろうか。
  • 主が直接民に語るなら、弟子はいらない。しかし主は弟子を用いる。人を導くのに人を用いるのが主のみこころ。だからこそ、用いていただくという弟子の喜びも生まれる。

2.弟子の舌

  • 弟子は疲れた者をことばで励ます。これは非常に高度な営み。人の「疲れ」を理解し、どんな励ましが必要なのかを判断しなければ、どのようなことばを語るべきかもわからない。
  • 弟子は、人の必要を理解することと、主のことばを理解することの両面が必要。学ぶべきことは多い。しかし独学で学べということではない。「主は…弟子の舌を与え…励ますことを教え」と言われている。主から学び、主からいただくのだ。

3.弟子として聞く

  • 主ご自身から教えられ、受け取るために、弟子として聞くことが必要。
  • 主は朝ごとに「耳を呼び覚まし」てくださる。主が「耳を開いて」くださる。独学で自力でなんでもわかるのではない。主のことばは聖霊の助けによって真に理解し受け入れられる。
  • 心を主に向け、弟子としてくださるように求めよう。