2023年2月19日 主日礼拝

使徒の働き 1章7~15節
國分広士牧師

1.祈りの対象

  • 7-8節の主イエスの言葉の中に「父」「聖霊」「わたし(イエス)」という、私たちの祈りの対象が示されている。全てのことを定めている父なる神。私たちの助け主である聖霊。私たちの救い主イエス様。この三位一体の神が祈りの対象。
  • 主イエスは人となって弟子たちに祈りを教えてくださった。いつも父を見上げて父を愛し、父のみこころを第一とされた。父への信頼こそが祈りの基礎。
  • 助け主聖霊は、私たちが祈るより先に、父にとりなしていてくださる。(ローマ8:26-27)私たちの祈りが不完全であっても、聖霊の助けがある。では私たちは何も祈らないで良いのか?いやむしろ聖霊と共に祈りたい。ことばとしては不十分な祈りであっても、聖霊が補ってくださることを信じ、精一杯祈りたい。
  • 「わたしの証人」ということは、私たちの罪を贖うため、主イエスが十字架で死なれ、三日目に復活されたことを証しするということ。私たちが神に仕える主目的はここにある。礼拝を守り祈るという信仰的な行為をすることに止まらず、人々に主イエスを証ししよう。証をしようとする時、祈らずにいられない。証をしないなら、祈りの動機は著しく減ってしまう。

2.いつも祈っていた

  • 弟子たちは「いつも」祈っていた。たまにではなくいつも。ある人は祈りを呼吸にたとえる。「呼吸しないでは生きられない。祈らなくては霊が生きられない。」と言う。
  • 祈りの価値がわからなければ時間の無駄に思うだろう。しかし、親しい人との語らいならば、会話内容が何であっても無駄には思わない。大切な時間のはず。
  • 自分の弱さ・罪深さを認めなければ、祈りは他者依存で無責任に思うだろう。しかし、瓦礫の下に埋まった人は、助けを祈る以外には何もできない。やるべきこと・できることを放棄しなくても良いが、できないことがあることはわきまえるべき。自分を救うことは誰にもできない。救いは祈り求めるべきこと。
  • ドラマの一場面で、ヤングケアラーの女児がスクールカウンセラーに「もっと助けを求めていいんだよ。あなたはこどもなんだから。」と言い聞かされ、泣き崩れる。私たちは主の前では霊的な幼子。助けを祈り求めよう。

3.心を一つにして祈っていた

  • 弟子たちは「心を一つにして」祈っていた。14節では、11弟子、女の弟子たち、主イエスの家族という集まりなので、30-40人ぐらいか。15節では120人ほどが一つに集まっていた。
  • ネットもSNSもない時代なので、空間的に一緒に集まることが必要だった。しかしネットでつながれる現代も、顔と顔を合わせて交わる意義は薄れない。
  • コミュニケーションには、ことばだけでなく、表情やリアクションが重要な意志や感情を表現する。それは一緒に集まっていないと共有できない。
  • 祈りの課題をそれぞれの場所で各自が祈ることにも大きな意味を感じるが、祈るために一緒に集まることまではしたくないのなら、主はその祈りをどう思われるだろうか。主の前に真実な祈りであることを目指そう。