コンテンツへスキップ
ナビゲーションに移動
2022年9月25日 主日礼拝
1.無一文になって帰って来た弟
- 大金持ちの次男。いずれは自立して家を出て行く身と考え、自立の資金として、相続財産の生前分与を求めた。しかし数日で遠い国に旅立つのは、慎重に良い計画をたてた上での行動とは思えない。邪魔されずに楽しみたいだけで、「遊女といっしょにお父さんの財産を食いつぶした」という言葉通りなのだろう。
- 無一文になった上に飢饉に襲われ、飢え死にしそうな危機を経験し、弟は我に返る。自分は愚かだったと気づいたのだ。彼は家に帰って父にあやまり、雇い人にしてもらおうと決意した。「天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪ある者です。息子と呼ばれる資格はありません。」と、罪の告白を準備して。
- 言い訳をしようとする人は悔い改めていない。無一文になったのは悲劇だが、そうだとしても、自分の愚かさを素直に認めて悔い改める人は、幸いなのである。
2.弟と父を拒絶した兄
- 兄は弟の帰宅を喜ばない。彼はその日も畑で働いていた。いつも父の戒めを守り父に仕えてきた自負心のゆえに、放蕩三昧で身を持ち崩した弟は赦せない。ところが父は罰すべき弟の帰宅を喜び祝っているから、父の喜びにも共感できない。自分の誇りが自分を孤独にさせてしまう。それは愚かではないのか?
- 東北被災地キャラバンでこのストーリーを劇にして見せたが、劇を見た被災者の方々は「一番偉いのは兄さんだ」と言った。真面目にこつこつ働く姿に共感したのだ。兄が弟を拒絶するのも、弟の悔い改めを評価しないなら当然。兄を主人公に見れば、この話は「正直者はバカを見る」という不条理を訴える話に見える。
- しかしこの話の真の主人公は「ある人」(11)。それは父。父なる神が悔い改めを喜ぶことを教えるための話なのだ。父には二人の息子がいたが、弟は家を飛び出し、兄は家にいても父と心が通わない。父から見れば二人とも問題なのである。
- 兄は父に共感できないという問題を抱えている。私たちも神のお心に共感できないと、自己憐憫に陥りやすく、その反動で他の人に厳しくなりやすい。
- 兄は父になだめられ、不満をぶちまけたが、その言い分は簡単にいえば「弟はずるい、羨ましい」ということ。行いは真面目だが、内面では弟と同じような欲望を抱いていた。だから楽しんでいる人を妬むのだ。
3.かわいそうに思う父
- このストーリーで主イエスが描こうとしたのは、父の寛大さ。父はまず弟の願いに応え、生前に二人に財産分与してあげた。父は豊かに与える存在なのである。
- また父は、無一文になって帰ってきた弟が、まだ遠かったのに駆け寄って、抱きしめ口づけし、心から喜んで受け入れた。詫びのことばを聞く前に赦している。
- さらに弟が父に謝る言葉は聞いたが、弟が言うつもりだった「雇い人の一人にしてください」という部分までは言わせない。一番良い着物を着せ、指輪をはめ、雇い人ではなく相続財産を持つ息子だと示した。
- また父は、怒って家に入らない兄のためにも、彼をなだめに出てきた。「わからずや」と切り捨てず、兄の言い分もきちんと聞き、「私のものは全部おまえのものだ」と言った。主イエスの描くのは「父なる神」なので、無限に持っているから、いくらでも与えられるのだ。
- 父はあわれみ深い。弟も兄も愛されている。その愛を信じ受け入れよう。
PAGE TOP