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2022年9月4日 主日礼拝
1.「罪人」にはどんな価値があるのか?
- 主イエスの話を聞くために取税人や罪人たちが集まってきたが、パリサイ人たちは主イエスが彼らを受け入れたことに文句を言った。取税人は経済的には裕福だが、神に裁かれる汚れた存在なので、交わるべきではないと考えていたのだ。
- しかし主イエスは彼らを受け入れ、食事まで一緒にした。彼らが集まったことに意義を感じていたのだ。そして主イエスはパリサイ人を「わからずや」と切り捨てずに、パリサイ人たちにご自分の思いを理解してもらうために、三つのたとえを話された。三つとも失われた存在の発見という話である。
2.見つけるまで捜したい
- イスラエルの羊飼いは羊を大切に育てる。100匹いれば100匹の一頭一頭名前をつけ、その一匹を大事にする。だから一匹でもいなくなれば放っておけない。
- しかし捜しに行くためには「九十九匹を野に残して」行かなくてはならない。それは危険ではないのか?そこまでのリスクを冒すほどの価値が一匹にあるのか?
- 主イエスは「捜し歩かないでしょうか?」と言う。それは「当然捜します」という答えを誘発する尋ね方。羊を飼うなら迷子を捜すこともありうる事なのだ。
- 1ドラクマは約1万円。1万円が見つからなければ必死で捜すはずという話のほうが共感しやすい。昔の家屋は室内が暗い。半洞穴式の家には窓がないし、あっても、防犯上窓は小さい。部屋の隅の暗がりに転がっているかもしれないので、明かりをつける。明かりには油が必要なので、お金も時間もかけて丁寧に捜す。
- 三つ目の放蕩息子の話の場合は、帰ってくるのを待つケース。しかし、失われていることを悲しみ、見つけ出したいと言う気持ちは共通。主イエスには「見つけ出したい」気持ちがあった。他方、パリサイ人にはその気持ちがなかった。
3.見つけた喜び
- 羊を見つけた羊飼いは、友達や近所の人たちを呼び集めて「一緒に喜んでください!」と『言うでしょう』と主は問いかけた。またコインを見つけた女性も女友達や近所の女たちに「一緒に喜んでください!」と『言うでしょう』と主は問いかけた。この問いかけは「当然、そう言います」という応答を期待している。
- 私たちはこの問いかけに「なるほど」と思いつつ「自分ならそこまではしない」と思うかもしれない。日本人は恥ずかしがり屋だし、近所の人々に対してそれほど心を開いていない。しかし、「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。」(ローマ12:15)ということばもある。
- 「一人の罪人」とは、主にとっては、大切でありながら主の御前から失われており、是非とも自分の手元に戻したいと思っている人である。そう言う人が自分の話を聞きに来たのだから、主イエスは喜ばれたのだ。
- パリサイ人は喜ばなかった。実は彼ら自身が主と共感できないという点で、主の御前から失われている。主イエスはパリサイ人にも、ご自分の気持ちを理解してほしかった。私たちに対しても、そう思っておられる。そしてもしも主イエスの気持ちがわかっていなかったことを反省し、悔い改めて主イエスを信じるなら、天国で喜びの声が上がる。
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