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2022年1月30日 主日礼拝
1.神のご性質としての聖
- 神のご性質は「聖」と「愛」。愛についてなら、信仰がなくても人は喜んで学ぶ。しかし「聖」については、何が「聖」なのかを示す神への信仰がないと、人は拒絶する。信仰の分かれ目になるのが聖。
- しかし人も、神に似た性質を持つので、自分なりに善悪を判断しながら生きている。買い物に行けば良いものを選んで買い、汚れないように汚されないように注意している。誰かがルール違反をしているなら怒りも感じる。
- だが人は必ずしも正しい判断ができるわけでなない。逆走事故を起こす人は、正しい方向と信じて逆走し始める。許容範囲と判断してあえて基準に従わないこともある。基準の方が間違っていると考えることもある。
- あやふやな判断をする人間には、絶対的な基準が必要。科学者の意見が重宝されるのは科学が正しい基準を示すと期待されるから。科学も人間の学問に過ぎないので、絶対的な基準にはなり得ないのだが。
- 真に絶対的な基準は造り主である神。神の聖さこそが真の基準。
2.主の命じたことに従わない罪への罰
- 祭司ナダブとアビフは、主が命じたものではない異なる火を主の前に献げたので、主に焼き殺された。彼らは偶像にではなく「主の前に」献げたのに神罰を受けた。主を汚そうとしたのではなく「献げた」のに拒絶された。創世記4章のカインとアベルの献げ物の記事を思い起こす。身勝手な献げものを主は拒む。
- ケーキ作りの秘訣はレシピに従うことだと熟練者は言う。料理ならレシピ通りでなくてもそれなりにできるが、ケーキは化学反応を伴うので計量や手順が異なるとうまくいかない。
- ナダブとアビフは「主が彼らに命じたものではない」ものなのに、それで主を喜ばせようとした。お手拭きとして雑巾を差し出すような失礼。
- 焼き殺されるとは、あまりにも厳しい罰。祭司だからこそ、もっとも厳しく裁かれたと思われる。祭司は民に、何が神に喜ばれ何が神に嫌われるのか、神のお心を教えるべき立場なので、民への警告となったのだろう。
3.聖なるものと俗なるものを分ける
- 「聖なるものと俗なるもの、また汚れたものときよいものとを分け」(10)ることは、主のみこころ。創造のはじめから、主は光と闇を分け、大空の上の水と下の水を分け、海と陸を分けられた。主はごちゃ混ぜにするのでなく整理される。
- 罪は逆にごちゃ混ぜにする。蛇は善悪の木の実を食べても死なないし、食べれば目が開かれて神のようになると、神の基準のほうが間違いだと主張した。
- 人はいつでも、何が正しい基準なのかを判断しながら生きている。主のみことばこそ正しい基準であることを信じよう。
- 主のみこころに従っていないことがあると気づいたなら、すぐに悔い改めよう。自分が正しいと信じて逆走し、大事故とならない前に。
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