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2019年7月7日 主日礼拝
- 「主の御腕はだれに現れたか」という問いに、エチオピア女王カンダケの高官は「誰なのか?」と疑問を持ち、ピリポに尋ねた。(使徒8章)それはイエス様だとピリポは教え高官は信じてバプテスマを受けた。イザヤ書が書かれたのはイエス様より700年前の時代。事前に詳しくメシヤ預言が語られていたが、十字架が実現するまで正しく理解されなかった。
- 富や権力を持たなかったイエス様は、この世的には見栄えがしなかった。
- 十字架に磔になった者の姿はむごたらしく、目を背けたくなる。
- イエス様の苦しみは、自分のためでなく、私たちのためだった。ところが、私たちは、神を冒涜した罰だと思っていた。
- 事実は、イエス様の受難は、私たちの罪の身代わりに罰を受けたのである。だから、あがなわれた私たちは癒され、平安が与えられる。
- 羊は飼い主がいなければ、どこに行くべきかわからずにさまよう。群になる習性はあるが、行き先がわからなければ、群全体で迷う。自分がどこから来て、どこに行くのかがわかっていないのに、自分勝手に生きるてなら、迷う羊のようなもの。ところが、主はそうした悟りのない者の咎をイエス様に負わせ、救ってくださる。
- 十字架前の裁判でも、連行されて行くときも、磔になっているときも、主は自己弁護や相手を罵ることもなく、祈りと赦しととりなしだけを語られた。
- イエス様が復活するまで、民の背きの罪のゆえに死なれたとは理解されなかった。
- 最大の敬意を払って葬られるべきなのに、ただの人として埋葬された。
- イエス様が代償のささげ物となることは、主なる神のみこころだった。みこころに従って自身をささげたイエス様は、子孫として弟子を、すなわちクリスチャンを、あれから2000年も見続けている。
- 主イエスは亡くなる前に「完了した」と言われた。預言どおり、満足されたのだ。「わたしの正しいしもべ」とはイエス様。イエス様は私たちの咎を負って、義と認めてくださる。
- 父なる神は、自分のいのちを死に明け渡したイエス様に、栄光を与える。主の栄光は、勝ちほこる者ではなく、人の罪を負い、とりなすお方に与えられるのである。
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