2020年8月23日 主日礼拝

マタイの福音書 7章12節~14節
國分広士牧師

1.これが律法と預言者

  • 12節「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。」は誰もが当然と思う教え。主イエスは「これが律法と預言者です」と言われた。すなわち聖書の戒めの真髄だと。聖書全体の知識がなかったとしても、この教えは誰もが当然と思う事柄だろう。

2.いのちに至る門を見出す者はわずか

  • 戒めの真髄がわかっているのに、人はそれを行なっていない。相手がしてもらいたいことを知っていても、ためらったり無視することもある。やましさを感じたくないから、人の求めを知らないままでいようとさえする。
  • 「当たり前のことができない」という問題に気がつき解決を願う人は、問題の原因を考え、解決の道を示す教えを求める。しかし解決の道を求めても、実際に「いのちに至る門」を見出す者はわずかだという。なぜなのだろうか?

3.滅びに至る門は広い

  • 道を求めもしない人は、気がつかないうちに滅びに進んでもしかたがない。
  • 気をつけるべきは、道を求めていながら、滅びに至る門へと進んでしまうこと。主イエスはこれを戒めている。問題に気がつき、解決を求めているのに、誤った道に向かってしまうのはあまりにも残念。しかし「そこから入って行く者が多い」。
  • 自分がしてほしいことだが、相手は欲していないこともある。それを相手にするのは自己満足にすぎない。だが、実は自己満足な親切をやりやすい。
  • 反対に、自分の価値観を押し付けてはいけないからと、行動を抑制しすぎることもある。しかし明確に相手の求めを知っている場合もある。それでもしないなら単なる言い訳に過ぎない。だが言い訳をすることが多い。
  • 人の求めに対して、能力的に応じられないこともある。だが、できることもある。神が問題にされるのは、できないことよりも、できるのにしなかったことだろう。できてもしないのは怠慢。怠慢であることも多い。

4.狭い門から入りなさい

  • 「自己満足」や「言い訳」や「怠慢」を捨てるのは「狭い門」、「細い道」。
  • ストイックな「狭い門」は嫌われやすい。人は良い道を求めながら、その道が広いことを願う。自分にとって都合の良い生き方が正解であることを願っている。
  • 主イエスはそれを戒める。「自分はこのままでいい」と、自分自身を肯定することは「大きな門」であり「広い道」。そこを歩んでも悔い改めは生まれない。しかし、「狭い門」や「細い道」を通ろうとすると、通れない自分の問題に気がつき悔い改めが生まれる。
  • 罪人である私たちは、生きる限り罪を犯す。必ず悔い改めが必要。毎日顔を洗い歯を磨くように、心も悔い改めできよめなければならない。「自分がしてほしいことを人にする」ことを実践しようとするなら、必ず悔い改めるべき事柄に直面する。
  • プールの底の鏡で自分の泳ぎのフォームを確認すると泳ぎが上達しやすいという。自分の霊的な問題に目を向けるのは気が重いだろうが、気がつけば、神に解決を求める。そして解決を求める人は、罪をあがなう主イエスが自分にこそ必要であることを発見するのである。