2020年9月6日 主日礼拝

創世記 33章8節~11節
國分広士牧師

1.エサウを恐れるヤコブ

  • エサウとの再会は、ヤコブにとって、気の重い課題だった。彼は過去に兄を出しぬき騙していた。ヤコブは双子とはいえ弟だった。エサウから空腹時の食事と引き換えに長子の権利を買い取ったのだが、兄への愛も尊敬もなかった。さらに、父イサクもだまし、エサウのふりをして、神からの祝福も受け継いだ。エサウはヤコブを恨み、殺してやると言っていたので、逃げ出していた。
  • エサウを恐れたヤコブは策を練る。まず自分より先に使いを送って、帰る予告をし、兄の様子を探った。兄は400人を引き連れて迎えに来ると知った。(32:3-6)
  • その情報はよりヤコブを不安にさせた。なぜ400人も連れてくるのか。単なる再会にしては大げさ。まるで戦いに行くようではないかと。それで、自分の宿営を2つに分け、襲われても被害を最小限に止めようとした。(32:7-8)
  • さらに、神に祈り(32:9-12)、兄に贈り物をする知恵を得、自分より先にしもべに託して送り届けた。(32:13-20)

2.ヤコブを抱きしめたエサウ

  • 不安を抱えつつも、ヤコブは逃げずにエサウに対面した。
  • エサウはヤコブに走り寄り抱きしめた。(4)
  • エサウの心情は書かれていない。20年前はヤコブを殺す気だったエサウの心がどうして変わったのかは不明。彼自身の事業が成功して富んでいるので、過去のことはさほど気にならなかったのか、弟からの贈り物が気に入ったのか。

3.神の御顔を見ているよう

  • エサウが自分を喜んで迎えてくれたのは、ヤコブにとって感激だった。先のラバンとの友好的な別れといい、エサウとの友好的な再会といい、赦され受け入れられることは、非常に大きな出来事だった。それで「神の御顔を見ているよう」と言った。
  • 私たちはまだ神の御顔を見ていない。しかし、やがて最後の裁きの時に、誰もが神の顔を見る。そのとき、神は笑顔だろうか。怒っているだろうか。顔を合わせることは確実だが、どういう顔なのかは大違い。
  • ヤコブが贈り物をしたように、神は私たちの赦しのために主イエスを十字架にかけて、神へのなだめとした。償いさえすればいいというほど単純ではない。大切なのは、相手が真に受け入れる心になるかどうか。相手の心に届くかどうかである。真の赦しは奇跡である。