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2021年2月21日 主日礼拝
1.主イエスを試そうとした問い
- 主イエスの公生涯は、3年から3年半と思われるが、その中でも、十字架にかかる一週間くらい前から、受難・復活へと進む短期間の記事が多い。この期間に主イエスはエルサレムに行かれていたため、敵対視していたサドカイ人(祭司長など権力に近い現実的な人々の宗教的立場。22:23で復活を否定するなど信仰の姿勢はリベラル)やパリサイ人(律法の厳守こそ救いの道と信じていた、信仰における超保守派。)に論争をいどまれた。
- 律法を重んじ深く学んでいるパリサイ人の中の律法の専門家が、主イエスにどの戒めが一番重要かを尋ねた。ある戒めを守ることが他の戒めの妨げとなったらどうするかという疑問が背景にある。マルコ7:9-13では、主イエス自身が、「神へのささげもの」と「老いた父母の扶養」のどちらが優先するかという、パリサイ人たちの不毛な議論をとりあげ、批判している。
- 人をことばの罠で陥れようとする悪意はいただけないが、イエスへの質問には、彼が本当に神の子なのかを尋ねる意味がある。主イエスも、きちんとお答えになることで、彼らに対してもご自分の知恵と権威を明らかにされ、主イエスを救い主と信じる機会をお与えになったのである。
2.心といのちと知性を尽くして神、主を愛する
- 主イエスは、律法の中の一部分を指して優先順位を示すという方法ではなく、律法全体を大局的に見て、その趣旨を説明された。
- 人間は神のかたちとして造られた。神の栄光を表すことが、人間の使命である。「心・いのち・知性を尽くす」、すなわち自分自身の全存在をかけ、神を愛するということに尽きる。
3.隣人愛は神への愛と同じように重要
- さらに主イエスは、神への愛と同じように隣人愛が重要だと教えた。真に神を愛するなら、隣人愛は必然的に付帯する。
- 神への愛は観念的になりがちだが、人への愛は具体的な行動が伴う。「戒め」は具体的行動を規定するので、隣人愛の方が、戒めとしてわかりやすい。
- 誰かが自分の子に良くしてくれれば、親はうれしい。神は全ての人を愛しておられるので、人を愛することは神への愛の具体的な現れという意味もある。
- ルツ記4章5節に、やもめナオミの夫の畑を「私が買い戻します」と言った親類に対し、ボアズが「あなたがナオミの手からその畑を買い受けるときには、…死んだ人の妻であったモアブの女ルツも引き受けなければなりません。」と語った言葉が記されている。やもめとなったナオミを助けたいと思うのが人情だが、それにはルツを妻として引き取るという条件が付帯していた。隣人愛とは、具体的であり、色々なしがらみを引き受けるということ。
- 神はしがらみを引き受け、自分自身のように私たちを愛してくださった。その結果が十字架。この教えには神の心が現れている。
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