コンテンツへスキップ
ナビゲーションに移動
2021年3月21日 主日礼拝
1.できることなら
- 主イエスは受難を予告していた。2節「二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」 12節「この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。」 28節「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」
- 弟子たちの裏切りもつまづきも予告していた。21節「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります。」 31節「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。」 34節「あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」
- 何が起きるかわかっているから緊張する。わかっていても裏切りはつらい。子に「クソババア」と言われたある母親が、子の精神的自立のしるしだと書いているが、言われた時はやはりつらい。治療とためと思っても、注射や手術は怖い。主イエスは受難を目前に心に痛みを覚えられた。
- 主イエスはその心の痛みを素直に父に訴えた。つらい時こそ祈ろう。
2.父なる神の計画
- 父なる神は、子である主イエスを愛しておられるが、主イエスが苦しむ計画を進めておられる。その計画の意味を主イエスはよく理解していた。(28節)
- 聖書は造り主である神に従う道を教えている。人は神に似せて造られた特別な存在であり、機械的に正確に動作するのではなく、自発的に従うように造られた。神との健全な関係の中で生きるのが、人間のあるべき姿。
- しかし人は自発性を用いて神に背いた。神は必ず罪を滅ぼすが、人間を滅ぼすことを望まず、身代わりに死ぬことで贖い、赦そうと計画された。それが十字架。
3.みこころがなりますように
- 「わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば」(42)ということは、他の可能性をもう一度考え、ご自分の死が人の罪の贖いの唯一の道であることを確認したということ。決定的なパスを受けたらシュートするしかないように、人には、自分が引き受けるしかないことがある。
- それは厳しい面でもあるが、自分の存在価値の証明でもある。もしも主イエスが私たちの罪を引き受けなかったら、どうなるのか?もしも自分が、引き受けるべき責任を引き受けなかったらどうなるのか?
- 父は全てを計画し、最後には栄光で満たす。父の真実を信じ、委ねよう。
PAGE TOP