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2021年4月18日 主日礼拝
1.確かに見、確かに知っている
- イスラエルの叫ぶ声を神は聞いていた。しかも、はるか遠くで聞いていたのではなく、近くで見ていた。
- すぐそこにいるなら、なぜすぐ助けてくれないのかと私たちは思う。しかし、神は時を定めて、事を行われる。
- その時がいつなのかは、神しか知らない。神を信じて、救いの時を待つかどうかに、信仰があらわれる。
2.あなたと ともにいる
- 主はモーセに、ファラオのもとに行け、と命じた。モーセは自分には無理だと思い、「私は、いったい何者なのでしょう。」と訴えた。
- しかし主は、「わたしがともにいる」と励ました。
- 事は、全てを支配する神によって成る。
- 私たちは、その実行に携わる人間の力によって成し遂げられるように感じるが、それは事の表面しか見られないから。どんなに力があっても、それだけで事が起こるのではない。実力を身に着ける努力には意味があるが、神よりも人間の力に頼るのは、傲慢。
- 主がともにおられることで、平安を得るかどうかに、信仰があらわれる。
3.「わたしはある」と言うお方
- 神はいないことがない。「神が存在する前は?」と考えるのは、神なしでも時間はあると思うから。時間は絶対的なものではない。時間すらも神の創造によって造られた。
- 神はどこにでもおられる。いないところはない。「こんなところには神のみこころはおよばない」と思うのは、神の偉大さがわかっていないから。神のみこころは全存在に及ぶ。
- 神が真の絶対者であることを信じる時、私たちは、自分も神に理解されていることが理解できる。神は自分のような者を愛せるのか?愛せるのだ。神は自分のつまらない心配事を理解してくださるのか?理解してくださるのだ。神は自分に幸いを与えようと思ってくださるのか?その通りなのだ。絶対者である神は、この自分の真の理解者なのだ。
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