2026年1月25日 主日礼拝

序
- 「分け登る麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」という、一休禅師作(異説あり)の和歌がある。どの宗教も目指す究極的な目標は同じだという印象を受け、多くの日本人の心に響く。
- 聖書的に考えると、この和歌は「なるほど」という面と「おしいなあ」という面がある。
- パウロが、多くの宗教であふれるアテネで感じたのも、この二つの思い。彼のことばに注目してみよう。
1.「宗教心にあつい」
- アテネには現代にまで残るたくさんの神殿や神像がたくさんある。2000年前のパウロの時代はもっとたくさんあったに違いない。ギリシャは国家としての力は衰えたものの、文化的には世界の中心であり、ギリシャ神話の神々はスタンダードな宗教として、広く受け入れられていた。
- 16節には、パウロが町が偶像でいっぱいなので憤りを感じたと記されている。しかし彼は単に偶像を否定し批判したのではない。アテネの人々の心にある真実な想いに注目したのだ。
- 人々が拝む様々な礼拝対象の中に、「知られていない神に」という祭壇があった。これは、世には多くの神々がいるので、自分たちがまだ知らない神もいるはずだと考え、まだ出会っていない神にも敬意を表そうとする祭壇である。非常に謙虚で礼儀正しい姿勢が現れている。
- こうした心の姿勢は、一休禅師の和歌にも共通する。「知られていない神に」という祭壇で拝んでいた人々は、自分でも知らないうちに真の神をも拝んでいた パウロは彼らを「宗教心にあつい」と評価した。こうした謙虚な心の姿勢は私たちも学ぶべきもの。
2.「世界と、その中のすべてを造られた神」
- 聖書は、「多くの神々」ではなく、「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神」を伝えている。聖書に立つ宗教(キリスト教・ユダヤ教・イスラム教)と他の宗教は、造り主への信仰であるかどうかという点で大きく異なる。
- 神は人間が自分の意思で歩むことを許している。神ならぬものを神とするのは失礼なことだが、それをも見過ごす。それは、「神を求めさせるため」だった。(27)
- 元々神のかたちとして造られた人間には、神を知る可能性が与えられている。また、「神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません」。多くの宗教に、それぞれ真実な教えが含まれているのは、その結果だろう。
3.神は悔い改めを命じている
- しかし忘れてはいけないのは、造り主には、人間と心を通わせたいという明確な意思があること。私たちも誰かが作り用意した物の中に住んでいる。家も町も道路も水道も。人間の作り手は、住む人と心を通わせるために作ったわけではないが、神は違う。いのちの造り主は、神のかたちである人間が、造っていただいたことを知り、感謝することを願っておられる。
- 造り主に感謝せず、人間自身の手で神々や、「無神論」に代表される、「人間の技術や考えで造った」、造り主を不要とする思想に立つことは神への冒涜。
- 神は「すべての人に悔い改めを命じておられます」。(注:クリスチャンも含む)
- その確証が、主イエスの復活。十字架と復活は、キリスト教だけの教え。
- しかし復活のことに話が進むと、ごくわずかの人々以外は、信じなかった。それでも信じた人々がいた。
結
真実の神を求める思いは誰にでもある。それがイエス様だと信じるかどうか。
「復活」と聞いて、イエス様のことをよく聞かなかった人々は残念。
ぜひ、イエス様をよく知っていただきたい。

