2023年12月31日 主日礼拝

イザヤ書32章15-20節
國分広士牧師

1.しかし

  • 9-11節に、「安逸を貪る女」「うぬぼれている女」といった表現があるが、これは、主の民イスラエルを指している。主の花嫁であるべきイスラエルは、主に背き、偶像崇拝を繰り返す。それが罪におぼれる女に例えられているのだ。
  • イスラエルは神の選びと守りによって、一家庭から一民族となった。さらに奴隷状態から解放され、カナンの地を占領して国家を建設した。主に従う彼らの歩みが祝福されたことは、主に従う者の幸いを証しする意味があった。なのにうぬぼれて、自分の得た幸いを恵みと感謝せず、自分の手柄のように勘違いし、今後も大丈夫だろうと思い込んで安逸をむさぼっていた。
  • 重大事が起きない日々は長くは続かない。地震や天候不順や強敵の出現といった、自分の力ではどうにもできない問題に直面すれば、一気に平穏は崩れる。そうして14節では宮殿すら見捨てられるとある。北王国イスラエルはイザヤの時代に滅び、南王国ユダも滅亡寸前まで追い詰められた。ユダの滅亡はまだだが、やがてエレミヤの時代に滅びる。「しかし」、その滅びの向こうに救いが約束されているのだ。

2.ついに

  • 私たちは早く結果が出ることを期待する。待つことはつらい。特に年齢が進むと、生きているうちに結果を見たいと思いやすい。
  • かつてイスラエルをエジプトから導いたモーセも、自分も約束の地に入りたいと願った。しかし主はそれを許さず、ただピスガ山上から遙かにカナンの地を見ることだけが許された。モーセほどの功績があっても、その功績すら主の与えた恵みの経験に過ぎない。うぬぼれて自分を誇るのは大間違いなのだ。
  • 私たちは時を決められないが、神は確かな計画を持って導かれる。ついに救いの時がくる。主の時を待とう。

3.いと高き所から

  • この地上のどこかに救いはないかと私たちは思いやすい。自分達に与えられている可能性を発見しようと探す意義はある。しかし、真の救いは「いと高き所から」与えられることもわきまえなければならない。
  • 「霊が注がれ」は、ペンテコステを連想させる表現。神の臨在を表している。神がともにおられるから「公正」が荒野にすら宿る。「義」が「とこしえの平穏」をもたらす。これは、不信仰な女の貪った「安逸」とは異なる。
  • 救いは自分で勝ち取るものではない。神による。私たちはへりくだって主に自分自身を委ね、「罪から救ってください」と願おう。